近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 産業と流通
No. 601
タイトル 商品環境と流行
解説

私はファッションなどとは縁がないよ、と卑下しているような、馬鹿にしているような口ぶりで言う老紳士が、けっこう今風にきまった恰好をしている例はめずらしくない。それには奥さんや娘さんの内助の功もあるだろうが、ひとつにはデパートの紳士服紳士用品売場の陳列商品から、そうけちくさいことをいわずに選べば、だいたいそれほど時代遅れではない紳士ができあがるためでもある。流行というものは商品がつくりだしている環境なのだから、並んでいる品揃えに素直に身を任せさえすれば、趣味のよしあしはともかく、立派な今風のおねえちゃんにも、おじさんにもなれる。趣味の点はそれほど気をつかう必要はない。聞くところによると、ファッションで喰っている有名人のなかにも、周りの人からは悪趣味の折り紙をつけられている先生はあるそうだから。

流行は呉服屋の作るものだという意見を、明治時代の文人、知識人もよく口にした。江戸時代は衣類のほとんどが家庭で仕立てられ、商品として流通する仕立てたものは古着ばかりだったから、着るものの好みといえば素材中心、その素材の生産、流通を事実上支配していたのは三都の大呉服店だった。その構造は明治時代もほとんど変わっていない。たくさんの雑誌、とりわけ婦人雑誌が流行を採りあげ、新聞にも流行記事が載ったものの、その情報ソースの99パーセントまでは、そう断っているいないに拘わらず、三越、白木屋などの有名呉服店の店員のはなしか、店頭の品揃えだった。

明治時代の小説家には衣裳に詳しいひとが多い。それはその時代の小説では登場人物のくわしい衣裳づけが求められたためもある。【新小説】【文芸倶楽部】【文芸界】等の文芸雑誌、【家庭雑誌】などの流行欄を担当していたのは、たいていは若手の小説作家だった。そういう「素人」の書いた流行レポートを、知識の乏しさからくる見当違いがあると、三越の高橋専務が嗤っている文章もある。作家の中には、だいじな作品の主要登場人物の衣裳づけを、大呉服店の番頭に相談したと正直に書いている菊池幽芳のような謙虚なひともあったが、実際はほかにもそういうひとはあったろう。

だからまたつぎのシーズンに流行するものの予想、またいま流行しているものの判断が呉服店ごとに違う、という事態が生じるのもやむをえない。呉服屋にとって流行商品は収益確保の目玉なのだから、他店を凌ぐためには自店の売り出す流行商品の差別化も必要になる(→年表〈現況〉1917年2月 「店それぞれの流行」【婦人画報】1917/2月;→年表〈現況〉1919年10月 黒田鵬心「大正八年の新流行―三大呉服店主張の色について」【婦人画報】1919/10月)。日露戦争前後の有名な元禄風衣裳の流行も、もともと三井呉服店のキャンペーンだったから、白木屋の商品カタログでは冷たい見方をしている、という風に。また東コートは白木屋が自店の創案と謳って宣伝していたから、ほかの呉服店がこの商品名を使うようになるのはかなり遅れた、という風に。

流行をつくることが商品販売のための方法であるにしても、カンジンなことはどうやってその流行商品を天下に周知させるかだ。その点について明治の文人水谷不倒は、流行は昔は役者がつくり、いまは新聞紙がつくる、と言っている。正確にいえば、昔は役者のアイディアを、芝居の見物衆が模倣と噂というメディアでひろめたのに対し、いまは呉服店の企画したアイディアを、マスコミがひろめる、ということになる。呉服店ということばを、アパレルメーカーにでも置き換えれば、それは現代もおなじことだ。

それに対して1927(昭和2)年に、その時代としてはぬきんでた見識を持っていた美容家の早見君子は、流行も昨日までは、呉服屋の命ずるままの流行だったが、今日では、流行の支配権は購買者側にうつされ、近頃流行のさきがけをしているのは、購買力の多い奥様たちになった、と言っている(→年表〈現況〉1927年12月 早見君子「今年のショールの流行とそのかけ方」【婦人之友】1927/12月)。

この見方も間違いではないが、その場合の奥様とは、マッスとしての意味だ。私は奥様だからといって、特定の個人の趣味がそのまま流行商品に現れるのではない。結局、百貨店なり、アパレルメーカーなりによって、すこしでも大勢の奥様たちに気に入られるように最大公約数的に要約されたデザインが、売場に品揃いする。それが私たちの消費生活に対応する商品環境だ。

女性の洋装化の最初のステップにいた早見君子にとって、予想の外だった点があるとすれば、1930年代以後(昭和前期~)の既製洋服の発展だろう。和装の女性はもし経済が許すなら、かなりの程度まで自分で自分の気に入った姿を実現することができる。しかし既製洋服という商品環境のなかでは、どんな趣味性の高い女性であっても、与えられた品揃えのなかから選ばされるだけで、受け身の立場で妥協するしかない。そしてその時点で、統計数字上、私は流行の支え手になる、あるいはならされる。

自分の身装についてのじゅうぶんな心遣いがあり、また、よいセンスをもっていて、しかし流行には興味がない、という人は多い。素材のよい質感、眼に快い色調――そういうものに対する愛に欠けているのでは決してないが、彼、あるいは彼女の耳には、例の、「これがよく売れています」という店員の決まり文句はなんの意味もない。ここではなしはこの文章の冒頭に戻る。

私たちは現代の商品生産と流通のかたちのなかに生きていて、流行商品から逃れることはできないし、逃れる必要もない。テレビのスイッチをひねれば人気タレントたちの歌声が流れてくるのを、テレビをつけているかぎりはやめさせることはできない。けれども、そんな風に中島みゆきや加藤登紀子に耳を傾けているのと、彼女たちの追っかけになるのとは大変な違いがあるはずだ。流行、――あるいはファッションについての誤解のひとつはまずこの辺にある。

今和次郎はこんなことを言った。「流行とは生活力の旺盛な人々のあいだに自ずから生ずるものである。いま仮に三年間もおなじネクタイで電車の座席にうずくまって通勤するサラリーマンがあったとしたら、その姿から私たちは彼の仕事ぶりを想像し、彼の生活に賛意を示すことができるかどうか。とても我慢のできない沈滞感を彼から受けとるにちがいない」と(「近代和装美」【みつこし】1938/2月)。今はここで流行と変化とを混同している。サラリーマンが、その日その日の気分に合わせてネクタイを選ぶのは楽しいことだろう。けれどもその選択が、いつも流行を念頭においている必要もないし、おけるものでもない。気分を高揚させるのは変化であり、ヴァラエティなのだ。流行はそのなかのひとつの――多くの人にはどうでもよい要素にすぎない。それは毎日の夕食の献立を考えれば理解できるだろう。

1992(平成4)年に農作業ウエアデザインコンペがあった。審査員のなかの石津謙介とカナダ人の日本農村研究者とが対談し、雑誌編集者はそのタイトルを「農作業着の実用性とファッション性をめぐって」とした(【農業富民】1993/5月)。もちろんユニフォームのデザインにも流行はないわけではないが、それは冷蔵庫の外観の流行程度のものだろう。人気デザイナーだった石津が、作業しているお百姓が、そんなに人目を気にするものかと言い放っているのは笑える。この場合は「農作業着の働きやすさとスタイルのよさ」とでもすべきだったろう。ある時期から、服装の感覚的魅力を、すべてファッションということばで表そうとする誤った傾向が生じた、これもその一例になる。

夕食の献立ばかりでなく、人は同じ感覚的刺激に飽きるという一面を持つ。感覚疲労ということばを使うひともある。そのとき私たちには今までとはちがった刺激が魅力的に見える。新鮮に見える――ということばをよく使うが、じつはそれはなにも新しいものである必要はない。ジェームズ・レーヴァー(Laver, James)の流行循環説はその点を指摘したものだ。モダンガールの断髪のときも、ミニスカートのときも、流行を毛嫌いする人は、口をきわめてそれがツタンカーメンの時代にも存在したスタイルの焼き直しにすぎないと罵った。しかしそんな攻撃は見当ちがいだ。なにが刺激的で、新鮮に感じられるかは、そんな物知りぶった歴史の問題ではなく、そのときそのときの大衆の好みとのマッチの問題なのだ。その状況把握の敏感な者がすぐれたファッションリーダーになる。

一方で人はまた、やっぱり米の飯、という執着の対象もたくさん持っている。お祖母さんの着た結城紬が、孫娘にも着られるのが和服のよさだとよく聞く。いま女子大に行っている孫娘が、本当に喜んでいるかどうかはたしかではないが、しかしそんな大げさなことでなくても、われわれの箪笥のなかに、傷まないかぎり10年、20年着つづけているジャケットやセーターは結構あるものだ。感覚疲労もあるだろうけれど、ひとは身についたものへのつよい愛着の気持ももっている。変化の相をばかり追っていると、着るひとと、着られるものとの、あたたかい感情の対応は見失われる。

機能上のイノベーションは変化のひとつだが流行とはちがう。下着類の多くは、新しいものを買い換え買い換えしても、スタイルは50年前の品と区別がつかないものも多い。しかしじつは素材や縫製上のイノベーションは大きかった。けれどもそんなことに気づいてもおらず、関心もないお父さんも多い。ファッションなどというものは、衣生活の流れの水面のさざ波のようなもの、と言った人もある。しかしどんな深い流れも、目に見えるのは水面のすがたばかりなのだ。

(大丸 弘)