近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 産業と流通
No. 604
タイトル 古着/古着屋/質屋
解説

江戸時代から明治にかけての日本人の衣類は、そのほとんどが家庭で女の手によって製作された。それ以外は仕立屋に出すか、古着屋から手に入れた。だから古着屋が今でいえば既製服にあたる、と言うひともある。いま私たちの着るもののほとんどが既製服なので、この見かたはシェアの点ではあたっていないが、いまではほとんど忘れられている、むかしの衣生活での古着の比重を、もうすこし再認識する必要はありそうだ。

江戸で古着屋といえば神田柳原が有名だが、古着屋はいたるところにあった。古着屋が軒を連ねているのが、柳原、浅草仲町、日本橋東仲通、牛込改代町など。1881(明治14)年に神田岩本町に官許古着市場が開設された(→年表〈事件〉1881年10月 「官許古着市場開業」読売新聞 1881/10/13: 4)。720坪の敷地に東西2カ所の仮屋を設け、元日、盆の2日以外、照っても降っても朝7時から(冬季は8時から)正午までの市が開かれる。鑑札を所有する市内の業者大体350名から400名くらいがここで取引をする。因みに、1887年の東京府の、古着商組合所属の組合員は、3,951人。

古着は犯罪に関係するためにお上の眼が厳しい。はやくも1873(明治6)7月には〈古着古金(ふるがね)等渡世ノ者取締規則〉が公布された。もちろん盗品や、遺失品調査の便宜のためだ。この時代の泥棒はかならず衣類を狙った。家に帰り遅れた子どもが追い剥ぎにあうこともある。庶民にとっては欠かせない日常の金融機関だった質屋の質草も、多くは衣類だった。衣類はその日暮らしの人たちだけでなく、そこそこの暮らしをしている家庭にとっても、不時の入り用のためのだいじな金融商品だった。だから質屋の番頭手代は、衣類反物についてはよほどの目利きでなければつとまらない。というのも、新品ばかり扱っている呉服屋とちがって、質屋にもちこまれる古着物にはずいぶんまがい物――糊貼りのきものとか――があるためだ。かつては、柳原もの、といえば粗悪な贋物の別名だったそうだ。

古着に官憲の眼が厳しいのは、犯罪に関係のあるためだけではない。1885(明治18)年には、コレラ流行地からの古着、ボロの移動が禁止された(→年表〈事件〉1885年9月 「コレラ流行地域からの輸送の禁止」【内務省達 甲】第31号 1885/9/14)。幕末から明治中期までの間、わが国はくりかえしコレラの大流行、小流行を経験した。その間にはペストの小流行があった(→年表〈事件〉1899年11月 「横浜にペスト上陸」東京朝日新聞 1899/12/2: 5)。さらに結核は、国民病とまでいわれるくらいに日本人のなかに浸透してしまった。明治期以後、古着が嫌われるようになった大きな理由のひとつは、衛生観念の向上だろうが、直接的には結核感染への恐怖だったろう。

病気の感染ということをべつにしても、貧困階層の居住する地域の古着の不潔さは想像のほかだったようだ。貧乏人は春先はわりあい豊かという。それは冬物を質屋(七つ屋とか一六銀行とかいう)にまげて(質入れして)、その金が懐に入るから、といった連中が、書生たちをふくめて少なくなかったのだ。こういう連中は恥も外聞もなく、垢づいた、虱の這っている綿入でも、大きな顔をしてもちこんだ。しかしいかになんでも質屋ではひきとらないようなもの――汚れた褌(ふんどし)や女の腰巻のようなものまで、一応値段をつけてひきとってゆくのは、長屋の裏裏まで廻って歩く、これも鑑札をもたされている屑屋だった。大きな笊を背負い、天秤を手にさげたそのすがたは、落語の「らくだ」にあざやか。

屑屋がタダ同然で買いとったものをもちこむ先には襤褸(ぼろ)屋と称する業者もいた。1890年代末(明治30年代初め頃)、東京府下に4、5百軒のボロ屋があった時期もあるという。 油で煮染めたような古着を洗張りして、それに縞を上手に染め上げて帯やらきものやら夜具やらにすると、「“ヘエ是が褌ですか”と呆れます位で、夜具などになっては田舎の婚礼に花嫁さんの持参物となります(……)」(「襤褸物語 上」読売新聞 1899/5/22: 付録2)。

急に金の入り用ができて、箪笥のなかのさしあたり不要の衣類を質屋にもちこむようなことは、太平洋戦争前までは多くの人が経験している。質屋の通い(帳)は家計簿よりもゆきわたっていたかもしれない。とはいえ客が大いばりで暖簾をくぐるような商売ではないので、質屋さんといえば大通りにはなく、横丁にあまり眼につかない看板がでていて、お客の多い日暮れどきになると、それに便所の電気のように薄暗い灯がはいる。

質屋にもちこまれる衣類でも、月給日までのほんの数日とか、かならず請けだすことを前提にしての品物は、売払ってしまうよりも高い金が手に入る。だから質屋の店先では、かならず請けだすからと押し問答して、一銭でもよけい借りようとする風景はいつものこと。期限までに、借りた金に利子を添えてもってゆけなければ、預けた品物は流される。利子だけでも入れれば救われる。

古着の供給源のほとんどはこの質流れ品だった。古着の流通には問屋というものがなく、質屋はいわば問屋のような立場だった。いまの質屋さんのなかには店頭にウインドウを設けて質流れ品を売っている店もあるが、これは戦前にはなかったこと。しかし市に出す前の品を素人に売って悪いという理由もなかったから、むかしも、これこれの品が出たら取っておいてくれと、なじみの質屋さんに頼む人がいたそうだ。

古着市で値がつけられると、そのなかの大量の品物は地方の仲買人にひき渡された。江戸時代には関東から東北まで、江戸発の古着類が、野良で働く娘たちの憧れの的だったことはよく知られている。ただし維新後は、周辺農村が相対的に豊かになったために、この流通のかたちはだんだんと廃れた。

古着屋では商品を店頭の軒先に吊す。これは呉服反物とはちがうディスプレーの仕方で、それで古着を少々ばかにして吊しものと呼んだが、それがいつのまにか既製服を指すように変わってゆく。これは柳原などの古着店が、だんだんと既製服を多く扱うようになり、やがては既製服店になってしまう店が多かったためだ。しだいに豊かになった客が古着から離れてゆくにつれ、古着屋にとってはむずかしい時代に入っていったのが、関東大震災(1923)のころ。

もっともそれ以前にも、質流れの反物をひきとった古着屋が、それを着物や羽織に仕立てて店頭にだす、俗に仕立物とよぶ、今でいえば既製の着物も存在した。この種のものは古着屋としては片手間の商売だったが、いい収入にはなった。

(大丸 弘)