近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 産業と流通
No. 612
タイトル 洗濯屋
解説

洗濯屋は、都会では第二次大戦以前から、クリーニング屋という言いかたでもよばれていた。しかし戦後になっても、ラーメンでなく支那そばという人が多い地方もあったくらいだから、クリーニングという言いかたにはなじめない人が、全国的には少なくなかったろう。問題は洗濯屋とクリーニング屋とを、区別している時代があったことだ。1910年代頃、つまり大正はじめ頃までの一般通念では、洗濯業、あるいは西洋洗濯業というのは、石鹸や各種の薬品を使用して衣服を水洗いする商売、それに対してクリーニング業とは原則として水を使わずに衣服等の汚れを除去する商売で、もちろんドライクリーニングという言いかたもしているが、単にクリーニングと言っていることが多い。

洗濯業とクリーニング業の区別は、じつは欧米のその時代の習慣をそのまま受けいれたものだった。欧米の洗濯というと、日本人には例のパリの洗濯女がよく知られているし、そのほかにも川の流れを利用した洗濯の情景は、ゴッホなどの絵画、小説、《会議は踊る》などの映画にも登場する。英語圏では古くからの水をつかっての洗濯はウォッシュ(wash)か、フランス語系のロンダー(launder)と言いかたをし、洗濯屋はランドリー(laundry)といわれた。水をつかわないで衣類の汚れを除去する方法が工夫されたとき、従来の水洗いとは区別してドライクリーニング(dry cleaning)と名づけ、ここにはじめてクリーニングという言いかたが登場したのだ。したがってわが国でクリーニング屋と洗濯屋を区別していたのは、まちがいではなかった。ただし1910(明治43)年ごろのわが国では、ドライクリーニングの営業者はごくすくなかった。明治のはじめには、日本や中国に滞在する欧米人の多くは、ドライクリーニングの衣類をわざわざロンドンまで送っていたらしく、わが国での営業は20世紀に入ってからのことになる。

またその時代までは、西洋洗濯ということばがよく使われていた。西洋洗濯屋に対してそれでは日本洗濯屋というものがあったのかといえば、それはそれまでの洗い張り業がそれにあたるものだったかもしれない。

明治時代までの日本人がけっして不潔というわけではなかったが、入浴にはひどく執着するわりには、着ているものの清潔については現代に比べればいくぶんか無頓着だった。夏に外から帰ってきものが汗びっしょりになっていても、軒先などに吊して風を通し、乾かすだけで、あすはまたそれを着て出るのがふつうだった。かなり上等のきものの襟が垢で光っているなどは、小説の人物描写でもお馴染みだ。それはいうまでもなく江戸大阪などの大都会でさえ、むしろ大都会ほど水が不自由だったこともあるし、それ以上にきものの構造のせいでもあった。

大部分の和服は原則、縫ってある糸をぜんぶ抜いて解体し、もとの布地の形に戻して洗わなければならない。森鴎外の小説の中に、学生寮には綿入れの丸洗いという豪傑もいたとあるが、黒羽二重の冬の綿入きものや七子の黒羽織などの洗濯は、自分の手におえるものではない。こういうものの洗い張りや仕立直しまで引き受けた商売が洗い張り屋で、なんでもかでもやってくれるから関西では悉皆屋とよんでいた。

洗い張り屋に出すようなきものはもちろん上等の絹もので、絹ものといったらよそ行きに銘仙の1、2二枚ぐらいしかもっていない大衆にとっては、そうしげしげ出入りするような店ではない。ふつうの洗い張りはたいていは家庭でしていた。せまい露地に張り板が立て掛けてあったり、空き地に伸子張りの友禅柄がハンモックのように風に揺れている風景は、第二次大戦前ならだれもが見なれていた。

こうした洗い張りをふくめての洗濯は、都会では貧しい女たちの大事な収入源になっていた。綿入れを井戸端で丸洗いするほどの豪傑でない書生さんも、郷里へ送りでもしないかぎりは、近所か知り合いのおばさんや娘さんに頼むしかない。一方では夫を亡くして女手で子どもを育てているような儚い暮らしの女性にとっては、仕立てぐるみで引き受けられるたしかな収入源になっていた。内職にはちがいなかったが、路地裏の塀に「洗い張りお仕立てもの致します」と小さな貼り紙を出しての商売は、すでに定職といってもよかったろう。相当高収入だった女髪結でも、明治時代にはたいていは看板は出さず、内職とみなされていた(→年表〈現況〉1891年2月 「東京下等社会婦人の内職」朝野新聞 1891/2/24: 3)。

それに対して本業の洗い張り屋の多くは染物屋を兼業し、むしろしみ抜きや染め変えものの信用でお客をつかんでいた。だから洗い張り業を洗濯屋と考えるのは、ちょっと無理がある。大戦後の産業分類でも、染織加工業のグループに入れられている。かんたんにいえば、西洋洗濯渡来までのわが国には、衣類の洗い濯ぎを専業とする洗濯屋というものは、内職以外になかったといってよい。

クリーニング、正確にはドライクリーニング以前の西洋洗濯とは、欧米伝来の石鹸・薬品類を使用しての水洗い業者だった。昭和20年代にアメリカの占領軍が日本各地にキャンプすると、カマボコ兵舎といわれたそのキャンプの周辺に、にわかに夥しい洗濯業者が生まれた。兵舎の敷地内部に洗濯施設がなかったわけではないのだが、GIたちはオリーブ色の布袋に洗濯物を詰めてそういう業者の家を訪れた。業者といってもほとんどはズブの素人だったが、若いGIたちにも饑えた日本人にも、たがいになにかいいことがあったのだろう。このとき石鹸類は、最初にお客のGIが袋にほうり込んで持参するのがふつうだった。当時の日本には「満足に泡の出るような」石鹸など、手に入らなかったのだ。このかたちは開化期の横浜居留地の洗濯業者を彷彿させる。洋服業や理髪業の誕生にも似たようなプロセスがあったが、洗濯業の場合、石鹸をふくめた各種薬品の使用とその知識が、とくに大きな意味をもっていた。

石鹸は洗濯につかう以外の洗顔、手洗いでも、日本人がもっとも素直に、また積極的に受けいれた舶来品のひとつだった。わりあい知られていないが明治初めの10年間は洗濯石鹸の輸入金額が化粧石鹸のそれを上回っていた(→年表〈事件〉1877年x月 「石鹸の輸入額」『大日本外国貿易四十六年対照表』1877)。

1880年代(ほぼ明治20年代)にかかるころ、洗濯石鹸の輸入が相対的に減少した理由は、わが国でも素朴ながら、各種の化学工業の起業が相次ぐようになったためもあろう。石鹸製造における国産のヤシ油利用もそのひとつだ(→年表〈事件〉1883年x月 「初期の石鹸製造業」『花王石鹸七十年史』1883)。もっとも、この事例も例外でないように、明治期の洗剤の質に関してはそう満足できる水準ではなかったようだ。

わが国のクリーニング業界をリードしてきた白洋舎がドライクリーニングに手を染めたのは、洗濯業としての創業後まもない1907(明治40)年のこととなっている(→年表〈事件〉1906年3月 「白洋舎創業」『日本の創業者』;『白洋舎五十年史』1955)。

創業者の五十嵐健治に対し、この技術の先進国ドイツの事情を調査してきた当時の農商務省の技官は、ドライクリーニング、すなわち乾式洗濯とは水で洗う代わりに揮発性の溶剤で洗うので、それには相当の機械設備が必要、と注意した。洗濯業はこれ以後、ひとつの方向としては、大きな投資を必要とする設備産業の性格をとることになる。そのためかえってアイロン仕上げなどの手技的部分に関しては、アンチ白洋舎とでもいうような職人気質が生きている業界のようだ。

(大丸 弘)