| テーマ | 産業と流通 |
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| No. | 611 |
| タイトル | 洋裁/洋裁店 |
| 解説 | 洋裁ということばがふつうに使われるようになったのも、1900年以後のことらしい。それ以前は和洋裁縫とか洋服裁縫といういいかたはあったが、たとえば洋裁ということばを冠した裁縫書はみあたらず、1908(明治41)年刊行の『洋裁宝典』(大見文太郎)あたりが早い例になる。 明治時代には洋裁だけでなく、和裁ということばも一般的ではなかった。すべて裁縫書であり、そのなかでは開化後のごく早い時期から、洋服の一部――シャツやズボン下、帽子などの作り方が解説される、というのがふつうだ。 男性の洋服は特定の職業や身分の人間にだけだが、わりあい早い段階でスムーズに定着したのに対し、女性の洋服はひとにぎりの上流婦人の着飾るお祭りの仮装のようなもので、その状態がそのまま半世紀続いた。洋服で通勤する夫をもつ妻にしてみると、日常手入れはしても、夫の洋服は外出のための乗り物とかわりなかったろう。したがって明治期の大衆にとっての洋服は、誂えるにしろ古着を買うにしろ、完成品をだいじに使うだけ、という点では、第二次大戦後の電化製品のような存在だった。 洋服が着物と同様に、材料を買ってきて、家で加工して利用する食料品のようになってきたのは、一般的には下着類からだった。明治期の男性の多くは日本風の褌を締めていたが、新聞小説の挿絵をみると、その時代半股引といわれたやや長めの猿股をはいている人もけっこういたようだ。また洋服の下は、打ち合わせの襦袢でなく、いわゆるワイシャツを含めて西洋風のシャツがふつうだった。メリヤスや毛織物のこうした下着類は、早くから出来合品が出回っていたが、針の達者だったそのころの女たちには、それほど苦労もせずにおなじものを、自分の手で縫い上げられたにちがいない。 見よう見まねのシャツや股引のレベルにとどまっているのでなく、女学校でも洋裁を教えるべきだという声が、明治の末には起こってくる。東京では市内60あまりの高等女学校が、大正に入るころには和服裁縫とともに洋服裁縫も正課に加えていたようだ(→年表〈現況〉1911年7月 「女学校で洋裁を正課に」都新聞 1911/7/8: x)。ということは、洋裁は多くの女学校ですでに随意科、ないし課外授業としてはおこなわれていたものと考えられる。 わが国での洋裁教育の歴史は開化直後にはじまり、それは当然のことながら在留欧米人女性の手で、おそらく小さな私塾のようなかたちでおこなわれている。それにくらべれば女学校での洋裁教育はややたち遅れた感がある。 そののち、規模の大きな洋服裁縫学校の発足や、存在が記録に残っている。たとえば1887(明治20)年に創立した女子洋服裁縫学校(→年表〈事件〉1887年6月 「女子洋服裁縫学校を設立」時事新報 1887/6/22: 5)。これは白木屋呉服洋服店が、さしあたりは同店の裁縫師を養成するために作った、プロ養成機関だった。おなじ年に東京高等女子師範が、生徒の洋服採用のため、平島女子洋服裁縫学校に80組を注文した、という記録がある(→年表〈事件〉1887年7月 「東京高等女子師範、平島女子洋服裁縫学校に注文」時事新報 1887/7/2: 2)。翌々年1889(明治22)年の[郵便報知新聞]には、東京芝愛宕町の東京男女洋服裁縫専門学校が、生徒の卒業式と祝宴を催す、という記事がみえる(→年表〈事件〉1889年4月 「東京男女洋服裁縫専門学校」郵便報知新聞 1889/4/19: 3)。ただしこれらの学校は、白木屋女子洋服裁縫学校同様、まだ不足していた洋服職人の能率的養成、ということが目的だったかもしれない。ややとんで1920年代後半(昭和初頭)になると、新聞は新しい洋裁学校を雨後の筍のよう、と言い、「多くは学校とは名のみの、生徒、実は女工からあべこべに月謝を徴して下請け工場を経営するといった、営利的な所謂学校屋が多い」と書いている(→年表〈現況〉1927年2月 「雨後の筍のような洋裁学校」都新聞 1927/2/19: 11)。 その点、1923(大正12)年の文化裁縫女学校、1926(大正15)年創立年のドレスメーカー女学院は、時代にふさわしい新しい展望をもっていたといえそうだ。寄宿舎を充実させて人材を全国から集め、産業としての衣服製作に早くから着目して、1936(昭和11)年には【装苑】を創刊している文化が、服装教育界をリードする地位に昇ってゆくのは当然だった。一方ドレスメーカー女学院は、アメリカで学んだ杉野芳子の包容力がカリスマになっていたようだ。目黒のドレメ出のお嬢さん、というイメージは、戦前の暗い時代にも、上品でしかもハイカラな、新時代の若い女性のアイドルのひとつだった。 1900(明治33)年以後の「洋裁」にはやや特定のニュアンスがあるかもしれない。第二次大戦以前、洋裁店とか洋裁屋さんといえば、もっぱら婦人子供服を仕立ててくれる街の裁縫店をさした。紳士服の方は洋服屋といった。この区別は欧米のドレスメーカー(dressmaker)とテーラー(tailor)の区別とおなじだ。女性が洋裁を習うといえば、子どもや、自分のふだん着を作るくらいがさしあたりの目的だった。戦後の洋裁学校ブームのときでさえ、テーラリングまでチャンと教えているのに、習った技術でプロとしてやってゆこうという人はほんとに少ないと、学校経営者は嘆いていた。けれども業界に、そんなにプロデザイナーを受け容れる余地があるかどうか疑問だし、とりわけ戦後は既製服がめざましく発展したから、手作りは子どものもの程度にしておこうというのは、賢明な判断だろう。 そうはいうものの、戦後であれば洋裁学校の専門コースまで学んで一流のアパレルメーカーに勤める、戦前であれば人通りの多い街の一郭にモダンな洋裁店を開く、というのは若い娘さんのひとつの夢にはなった。昭和の初めから、そういう颯爽とした女性をヒロインにした映画や、新聞小説が現れている。 (大丸 弘) |