近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 産業と流通
No. 609
タイトル 三越
解説

資料の不完全な幕末から明治初めにかけては、売上高や資本金額等を示して東京の大呉服店の順位をきめることはできない。しかし駿河町の越後屋が抜きんでた位置にあった事実は、同時代の江戸/東京案内のたぐいや錦絵、巷の評判等々から納得される。

「駿河町 畳の上の人通り」というよく知られた川柳。そしてまたお江戸で日に千両の金が落ちるのは魚河岸と、吉原と、越後屋という評判に、疑いをもつひともなかった。

新しい時代を前にしてそれについてゆけず、没落した布袋屋のような老舗もあったが、1880年代から90年代(ほぼ明治10、20年代)にかけての内国勧業博覧会に、東京の呉服店を代表して出品する店といえば、越後屋、白木屋、大丸の三店にきまっていた。

商売の仕方で、新しい時代になにかとのり遅れ気味だった大丸は、1910(明治43)年秋には東京、名古屋から撤退し、そのあとは越後屋から変わった三井呉服店と白木屋の雁行といいたいところだが、すべての点で白木屋は三井の敵ではなかった。

明治前半期の白木屋にはときおり悪い評判があったのも、三越との競争には不利に働いたかもしれない。娘連れの山の手の奥様が、前垂れを万引きしたと疑われて素裸にされた。なくなったと思った前垂れはべつの場所からすぐ見つかり、小僧の粗忽とわかった。奥様の家では謝罪を求めたが、白木屋側では、よくあること、と言ってとりあわなかった、という事件(→年表〈現況〉1881年11月 「万引き容疑の女性と少女、素っ裸にされる」 1881/11/14: 4)。また、白木屋の若い手代が店の品物を横領したというので、それを白状させるために蔵の中で拷問した、という事件など、白木屋にはなにかと古い体質が残っていた。

この時代、呉服店の抱えていたもっとも大きな課題といえば、従来の呉服太物商から欧米式のデパートメントストアへの転換だったろう。そのほか座売りから商品陳列式へ、それにともなう土足入店の問題、暖簾からショーウインドウへの店がまえの変容、西洋風建築による高層化と、エレベーター、エスカレーターの採用、自転車、馬車、自動車を利用した市内への迅速な配達網、天下の遊民を誘いこむための休憩、食事、娯楽施設の充実―などなど。三井呉服店―三越百貨店がこれらのすべてについて先鞭をつけた、というわけではない。けれども三越は営業活動の重要なある一点において、白木屋はじめほかの呉服店をはるかにひきはなしていた。それは「三越」というイメージを売る点においてだ。

その現れのひとつは宣伝刊行物の充実だった。大呉服店・百貨店でカタログ誌をもたないところはないが、早くも1899(明治32)年)9月に【流行】誌の刊行に着手した三井呉服店は、その後【時好】【三越タイムス】【三越】【三越週報】と誌名を変更しながら、あるいは重複して、1930年代(昭和戦前期)まで継続刊行している、という熱心さはほかの百貨店では例を見ない。

単に刊行が継続した、というのではなく、三井呉服店/三越のカタログ誌は、流行づくりのツールとして積極的に機能させられている。それが文字どおり値段つきカタログに多少色をつけたという程度の、他店のカタログ誌との違いだった。三井呉服店/三越は【三越】誌発刊とほぼ時をおなじくして、「こがね丸」の児童読物作家、巖谷小波を中心にした〈流行会〉をたちあげた。そのメンバーあるいは顧問には、幸田露伴、森鴎外、藤村作、高島平三郎、新渡戸稲造、黒田清輝などの錚々たる人たちの名前がならぶ。多忙なはずの鴎外が加わっていて、「流行」と題する短文を寄稿したり(1911/7月)、裾模様の図案の審査に加わったり(1912/4月)しているのは、ほほえましい。

この時代の三井/三越には、役員に福沢門下で三井銀行出身の高橋義雄、日比翁助などの論客もいて、【時好】以下の内容は、もともと他のカタログ誌とくらべてハイブロウだったといえよう。最初のうちはあるいは政治的コネを利用したかもしれないが、外国からの皇族、貴賓のお買いもの、といえば、それは三井/三越と決まったようになる。1904(明治37)年にデパートメントストア宣言したあとの三越は、白木屋以下の呉服店とははっきりとみずからを差別化していた。その年、東京呉服太物商同業組合が設立されたときも、当然のこととして三越は参加しなかった。設立時の組合長は白木屋店主の大村彦太郎。

「今日は帝劇、明日は三越」といわれていた三越は、すでに三越という名前で商売ができた。これは【時好】以降、カタログ誌のタイトルに、店名をそのまま使っているのが、三越以外にないことからも理解できる。

【新衣裳】高島屋
【衣裳】大丸
【今様】松屋
【衣裳界】十合
【流行】白木屋
【衣道楽】松坂屋

1920年代後半以降(ほぼ昭和~)になると、白木屋の、新聞一面ぜんたいをうめる、価格表広告が眼をひく。白木屋は場所柄日本橋花街のなじみ客を多くもっていたから、粋筋向きの商品に特色はあったが、三越に対抗するためには値段で勝負、というかまえが、この時代にはひとつの路線になっていた。

三越の売ろうとしたものはなにか。それは「流行」だった、といえるかもしれない。かつて流行の源は花街と、役者と、大名と、廓(くるわ)、といわれた。大名と廓が滅び、役者にかつての力がなく、明治も末になってくると花街もそれまでのような影響力を失ってくる。いまは芸者が貴婦人の恰好をまねる時代、といわれ、ハイソサエティの女性たちにとっての神殿は三越だった。そのもっとも華やかな例が日露戦争(1904、1905)後の元禄模様の流行といわれる。三越の意匠部の創意だったろうが、それがあれだけ一世を風靡したのは、見かたを変えれば、売場の番頭と上流階級の奥様方の力だったといえよう。それにつづいた桃山模様、女性のヴェールもまた、三越の生んだ流行だった(→年表〈現況〉1910年5月 「ヴェール」【新小説】1910/5月)。

第二次大戦前の和装中心の日本では、戦後のような、あるいは欧米のようなデザイナーの役割も地位もなかった。シーズンごとに新柄模様の宣伝はあり、各百貨店の百選会などは華々しくひらかれたが、染匠や織匠の名がとりざたされることはなく、デザイナーということばも知る人ぞ知る、程度だった。流行は百貨店の創作であり、百貨店の役割は流行をつくり、それを宣伝し、それにしたがわなければ趣味が悪いような錯覚を万人に与えることで、その巨魁が三越だったといえそうだ。

(大丸 弘)