近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 産業と流通
No. 603
タイトル 既製服
解説

既製服の販売は日本では輸入洋品類のひとつとしてはじまっている。しかし江戸時代にも、出来合のきものというものがないわけではなかった。記録としては新しいことになるが、柳原や芝日蔭町あたりの古着屋が、安く仕入れた反物を大量に内職の仕立て人に出し、それを古着といっしょに売る、という商売があることを、1910年代後半(大正初め頃)の資料が報告している。こういう商売を子供屋といったらしい。それは製品がたいてい一つ身、三つ身、子供の襦袢、チャンチャンなどだったから。

この種の流通のなかには、大人の絹ものの着物、羽織などを扱う店もあった。これは古着屋ではなく、日本橋の立花町、長谷川町、人形町辺に多くあった店で、こういう品は仕立物とよばれていた。このあたりには大きな呉服店の仕立をひきうけている職人が集まっていたから、そういう仕立屋が手隙のときを利用したり、その時分はたくさんあった裁縫教授所の、割のいい副収入を提供したりしていたのだ(【家庭雑誌】(博文館) 1916/3月)。こういう流通のかたちが、明治になってから生じたものとは考えにくい。

一方、近代的な既製服の生産も、維新後まもない時期からはじまったことは疑いない。それは各種の官服――軍服、警察官の制服、鉄道院、郵便配達などの逓信職員、等々の大量の需要があったからだ。最初は輸入に頼っていたこうした官吏制服類の大量供給は、それほど長い猶予をおかずに国内でも可能になる。ずっとあとになっての1920年代(大正末~昭和初め)の数字だが、軍隊、警察、鉄道、郵便従業者をふくめると、1カ年500万着を超えたといわれるから、その納入が有利で安定的な商売だということを、利を見るのに聡い業者が見逃すわけがない。このような大量生産の既製服を数物といい、数物に対して誂えの洋服は一つ物、ということになる。官庁への数物の請負は入札によるのが普通だったから、この入札に当たる人間は、原料価格の推移、製造工場の能力、競争業者の業態等を正しく把握していることが必要とされ、多くは製造業者から独立した被服請負業という立場だったようだ。洋服業界中でも最も男らしい営業、などと言っている資料もある(辻清『洋服店経営虎の巻』1926)。

その後、大量の制服をすべて民間業者に任せることには問題も生じ、陸軍被服廠のように、官服については直営の施設を設ける方向にすすんでいった。

しかし数物は官服だけではないから、業界はその後もとりわけ関西を中心に展開し、その一部が今日の被服業界に発展した。各種ユニフォーム、作業服、レインコート、白衣のたぐいを被服と呼んでいるのは、官服請負時代の軍隊での呼びかたを業界が受け継いだためだ。

わが国では家族の着るものは家の女たちが受け持つもの、と決まっていた。嫁入衣裳のようなごく上等のもの以外は、仕立屋に出すことは恥のように思われていた。まして既製のものを買うなど問題外だった。1901(明治34)年刊行の家訓書に次のような記述がある。

裁縫を仕立屋などに托するものあるが故に、中には寸尺を誤りて(……)誠に見ぐるしくして、借り着をせしか、但しは出来合を買いしかと疑わるるも多し。
(的場銈之助「衣服―裁縫」『家政一班』1901)

上述したようなものを含めて、いろいろなタイプの出来合服が、19世紀末(明治中期)には流通していた。たとえば柳原あたりにかぎらず、日本橋の大丸呉服店でも、主に子供ものの被布やチャンチャンの出来合を置いていたが、おとな物では流行の吾妻コートや、男子のトンビもあり、注文品の半額程度の値段だったという(→年表〈現況〉1901年12月 「新模様の春衣」【新小説】1901/12月)。

既製品は品質の一段落ちるもの、という認識はつよかった。「靴でも洋服でも、出来合の品は下手な織工が見習いに造る」(→年表〈現況〉1909年10月 「流行の洋服(上)」東京日日新聞 1909/10/23: 6)とか、素人にはわからないような傷物の反物を使うとか、生地をケチって縫い込みが少ないからすぐにほころびるとか、たしかに子どもの着物などは、慣れた人なら1日に6、7枚の襦袢を縫い上げたそうだから、仕事はザツだったろう。

出来合服はサイズにあまり気をつかう必要のない服種中心だったが、身体に合わないことへの不満も当然ながらあった(→年表〈現況〉1909年7月 秦利舞子「ミシンの応用」【新小説】1909/7月)。

また、だれともわからない人の手で縫われるもの、とりわけその多くがスラムのような不健康な環境で縫製される事実が知られていて、とりわけ結核感染の恐れをもつひともあったそうだ。出来合衣服が一般に、間に合わせの安物以上の品でなかった時代は、たしかにあったはずだ。

一方、19世紀後半は、欧米、とりわけアメリカでは、既製服産業の華々しい発展の時代だった。そのアメリカの情報が、いろいろなかたちでわが国の業界に刺激とならなかったはずはない。1906(明治39)年の三越の宣伝雑誌【時好】は、横浜の有名な貿易業者からとして、出来合服、英語のいわゆる「レデーメード」を製作、販売せよとの、勧奨の私信を掲載している。

目の前に柳原の如き怪しげなるものあるが故、貴店、三越呉服店の出来合服も亦之と同一視せらるる恐れなきにしもあらねど、こは無用の心配に候わずや、三越は三越特有の上等なる出来合を拵うれば足れり。
(→年表〈現況〉1906年6月 「出来合服を陳列せよ」【時好】1906/6月)

こういう認識はだんだんとひろがっていった。その三越に一歩先んじて「仕立洋服」の発売に踏み切ったのは、白木屋だった。宣伝文のなかに、急に旅行せねばならないという場合、ぜひ洋服が必要で、しかも仕立て下ろしの服を着てゆきたいという場合――といった文言が見える(【流行】(白木屋) 1908/4月)。

1910年代になると、三越、白木屋のような大呉服店では、揃って既製服の販売をはじめる。しかしおそらく「出来合」の悪いイメージを避けるため、特別仕立服、といった名前をつけている。松屋呉服店では仕立上(したてあげ)新衣裳という言いかたのほか、「レデーメード」というハイカラな言いかたもしている。最初のうちは子ども物以外は、洋服か、吾妻コートのような準洋服が多かった。価格は注文ものの7割から、半額といったところ。

既製服の大衆への普及は舶来の洋品下着類が先行し、やがて国内の零細な縫製業者が、洋品といわれたブラウス、セーター、スカートなど婦人の日常着、子供服や、シュミーズ、ズロース、アンダーシャツ、パンツなど男女の下着類をさかんに生産しはじめ、それは和服の下着にも及んだ。関東大震災前の婦人雑誌の流行案内はその様子を示してくれる。

時代の要求というのは妙なもので、近来は和服用肌着類の既製品が非常に目立って売れ行くそうです。肌着類といっても、単に下襦袢というだけでなく、パッチ、腰あて、お背当て、長胴着兼筒袖、ガーゼ肌着、都腰巻等その他いろいろあります。
(「防寒着のいろいろ」【婦人画報】1920/2月)

この種の下着類は、これまでは女性たちがちょっとした時間の合間に、半端のあり切れなどをうまく利用して作っていたものだ。それにたいして商品として店頭に飾られた婦人用パッチは、「輸出羽二重の表に、裏はガーゼを二枚重ねて、色合いは赤、白、水色、桃色等でありますが、何れもミシンで巧みに着心地よく恰好が取れています」などとあって、ただより高いものではあっても、古浴衣や夫の股引の再利用とはちがう価値のあることを、女性たちは理解したろう。

第二次大戦以後と比べると、この時代の既製服の発展にとっての大きなネックは、大量生産のための機械的システムの未発達と、共通標準サイズの欠けていることだった。その点、下着類や子供服、そして一部の婦人服は、サイズについては許容度が大きいし、縫製については、今日では考えられないような低賃金が大量生産を支えていた。ミシン縫製の熟練工のなかには、小学校高学年の少女がすくなくなかったといわれている。

関東大震災(1923)前後になると、とくに男性や子どもでは洋装化が一段と進んだ。東京などでは電車の中で、和服姿の男性はもう眼を惹くようになっていた。手ごろな値段のスーツや、オーバーは、大きな社会的需要になっていた。毛織物の国産化と、既製服の発展は、安サラリーマンにとっては大きな福音だった。また一方で、女性の洋装化を推し進める力にもなってゆく。

そんななかでさえ、吊し、に対する軽蔑はなくなっていたわけではない。

日本人が一般に出来合服を好まないのは、単に身体にシックリ合わないという理由からではなく、実につまらぬ虚栄心から之を買い入れぬことを好まぬ為
(家庭経済研究会『買い物上手』1926)

見栄、という一面もたしかにあったろうが、標準体型の研究が未だしだったこの時代、自分のからだに合う吊しに当たるには運も必要だった。高名なテーラーたちはその点を突いて巻き返しを図った。また既製服といってもすべてが手作業である点は注文服と変わりないのだから、値段の開きもそれほど大きくはなく、たとえば三越マーケットの高級既製服となると、一流テーラーによる注文服のほぼ半額、というのが常識だった(→年表〈現況〉1923年3月 「合着洋服の値段」読売新聞 1923/3/31: 4)。

既製服の人気で手ひどい痛手を被ったのは古着屋だった。

御覧なさい、事実、柳原にはもう古衣屋は数えるばかりで、大部分が洋服の既製品屋に変わってしまいました。洋服既製品の時代は四五年前から見えていたので、ただ因習的に古衣をあつかっていたのですが、今度は(震災によって)その古着を綺麗さっぱり焼きつくして、柳原は洋服既製品の時代がいよいよ出現しました。
(→年表〈現況〉1923年12月 「古着を脱いだ柳原」時事新聞 1923/12/18: 6)

古着から既製服――出来合物へ、という変化は和服もおなじだった。これまで大都会の古着和服の大きな受け入れ先だった農村地帯にも変化が生じていた。1919(大正8)年には、「農村の好景気のために古着が東京では品不足。その代わりに一見古着のように仕立てる‘仕入物’(既製)を買うのが、古着を買い慣れている人のいまの傾向。ただしこの種のものは桐生紬が多く、之を銘仙と称して8、9円位で売っている」とのこと(→年表〈現況〉1919年9月 「経済的な秋着の仕入れ」朝日新聞 1919/9/26: 5)。

既製服の普及は、女学校での裁縫授業にも新しい考え方を吹きこんでいる。これまでのメイキング中心の勉強から、見る眼を肥やし、選択する力を養う訓練だ。

今後仕入服(既製服)が漸次に発展して任意に低廉に衣服を購入することが出来る様になったらば、簡単にして便利で愉快な衣類が国民の多数によって使用せられ(……)学校における裁縫生活の内容にも影響し、調製と相並んで選択の能力が必要となるであろう。
(木下武次『裁縫教授法』1929)

既製服の発展に欠かすことのできない日本人の標準体型の研究を率先したのは陸軍だった。陸軍省が15万の金を投じ、3年間に8万5千人を対象に国民の標準体型を調査、それによって既製服を含めての最初の寸法表が発表されたのは、1925(大正14)年のことだった(→年表〈現況〉1925年9月 「日本人の標準体型」読売新聞 1925/9/14: 7)。

(大丸 弘)