| テーマ | 産業と流通 |
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| No. | 608 |
| タイトル | 百貨店 |
| 解説 | 特定の商品だけを販売する専門店でなく、品目を限定しないで扱う大型店舗は、わが国の場合1880年代以後(ほぼ明治10年代)の勧工場、1900年代以後の百貨店、1950年代以後のスーパーマーケットの順で発展しているが、スーパーマーケットの前駆的な営業形態はすでに1930年代(昭和戦前期)に、百貨店に付帯する売場として現れている、という見かたもある。さらに第四の多品目大型店舗として、1990年代以後の百円ショップをあげる大胆な見かたもある。 勧工場は1878(明治11)年1月、前年に上野公園で開催された、第1回内国勧業博覧会の出品物を売りさばくことを目的のひとつとして、麹町区永楽町(龍の口)に東京府が設置した公的施設(→年表〈事件〉1878年1月 「勧工場の創業」1878/1月)。それが人気になり、設置の要望もつよかったのか市内の各地につぎつぎとつくられ、1902(明治35)年には27か所に達した。 勧工場には少なくても10店舗以上、多いところ100店舗以上の店があって、ひとつひとつの店舗に与えられた面積は狭く、置ける品数もかぎられている。だから特定の品目を選んで買う人のためではなく、売る方も、衝動買いに近いショッピングへの期待が大きかったにちがいない。こういう商売の仕方は、その時代の感覚からいえば縁日の露店と似ている。「勧工場もの」(→年表〈現況〉1897年12月 金子春夢「勧工場もの」『新東京繁昌記』1897/12月)といわれるような安物がならべられていたり、縁日の金魚すくいや射的とおなじような娯楽施設が付属していたらしいことも。 明治という時代は、みんながなにかを見物することが好きな時代だった。各種の演説会にも大ぜいの聴衆が集まり、博覧会がつづけて開催され、上野の森の院展とか帝展とかいう堅い展覧会も、たいていは押すな押すなだった。勧工場の多くは都心にあったから、毎日のように変わってゆく銀座や日本橋あたりの街並みを見がてら、めずしい舶来品、小ぎれいな細工物などで、眼の正月を楽しむための人も多かったにちがいない。 東京の三井呉服店がいわゆる「デパートメントストア宣言」を公表したのは、1904(明治37)年の年末(→年表〈事件〉1904年12月 「デパートメントストア宣言」中外商業 1904/12/14: 1;都新聞 1905/1/3: 6)。駿河町の呉服商越後屋は明治になって、三井呉服店とか三越呉服店とか、名前と組織の変更をくりかえした末、最終的には三越としてわが国最初の百貨店となった。ただし宣言の時点では、世間的には百貨店という言いかたはまだできていなかったため、アメリカのデパートメントストア(Departmenntstore)をそのまま使ったのだろう。1900(明治33)年2月に[時事新報]は、ニューヨークのレーマン氏のデパートを、「米国の勧工場」と紹介している。逆に神田小川町のある洋品店は、1910(明治43)年に「日本一の廉価販売所は 天下堂デパートメントストア」などという宣伝で、新橋際に出店している。デパートメントストアがなんであるかを知らずに、流行語のようにつかったものか(朝日新聞 1910/10/28: 1)。 三越はわが国を代表する百貨店として、組織、店舗、販売方法、宣伝等々のなにかにつけてトップをきっているようだが、実はかならずしもそうではない。従来の座売りをやめて陳列販売方式にしたのは、大呉服店としてはたしかに三井が最初らしく、1900年のこと。しかし店頭のショーウインドウ設置は1904(明治37)年の今川橋松屋が先行した。客用エレベーターの設置は1911(明治44)年の白木屋が最初。ただしエスカレーターの方は1914(大正3)年の三越の方がはやい(→年表〈事件〉1914年x月 『株式会社三越 100年の記録』)。入店客の下足廃止は、1910年に三越の浜田重役が提案はしているけれど(→年表〈現況〉1910年6月 浜田四郎「小売商店に於ける下足全廃の利害」【実業界】1910/6月)、白木屋神戸店が1923(大正12)年開設時に先行した。 しかしともあれ、三越の威光は大きかった。1920(大正9)年に[都新聞]によせられた相談につぎのようなものがある。「私は職人ですが再々三越の切手を贈答品として用い、その度に小僧を使いにやりますが、何分仕事着のまま出す訳にもいかず、いちいち着替えさせる為、急ぎの折などは誠に面倒です、何とか方法はないでしょうか」と。担当記者は、仕事着で構わない、金額によっては、電話でも届けてくれるそうです、という三越側の答をつたえている。「今日は帝劇、明日は三越」というのは単に宣伝のコピーではなく、さまざまな三越伝説をうみだした。1階のネクタイ売場の女性は、戦後の一時期の日航スチュワーデスのように日本の代表的美女ぞろいだとか、売場の女性はご指名で、日本橋の某待合が斡旋してお座敷によぶことができるとか――。 三越にかぎらず、第二次大戦前の大百貨店には、流行をある程度左右する力があったに違いない。三越の三彩会、高島屋の百選会、関西では大丸の研彩会など、対象は一応富裕客だったといえ、染織を中心とした各種展示会の話題性は大きかった。1905(明治38)年前後の三越の元禄模様(→年表〈現況〉1905年4月 「元禄模様キャンペーン」【時好】1905/4月)、そのあとのヴェール(→年表〈現況〉1910年5月 「ヴェール」【新小説】1910/5月)、またさまざまなプライヴェートブランド商品の発売など、流行記事の担当記者のきいてまわるのは、顔見知りの百貨店店員だから、新聞雑誌の紙面をうめる売れ筋品名の多くは、百貨店の企画商品ということになり、その知名度はいやでも高くなる。 一方、大阪梅田の阪急百貨店に代表されるターミナルデパートというものがある。関西に呉服屋系のデパートがないわけではなく、東京にもターミナルデパートはあるが、阪急は電鉄の創始者小林一三の理念が支配的で、かつユニークだった(→年表〈事件〉1911年x月 「宝塚遊園地の開業」1911/x月)。電鉄の沿線開発、宝塚温泉と少女歌劇、そして阪急食堂――それは少々味気ないくらい実利的で、プチブル的健全さをもつ大阪の大衆に受けいれられた。ただしその大衆の、百貨店のプレステージを求める欲求にも、同時に応えなければならないという課題はもちこされる。 (大丸 弘) |