近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 産業と流通
No. 610
タイトル 仕立屋/洋服屋
解説

洋服の製造と小売店の呼び名は、維新後の業界の発展、推移の過程でいろいろと変わってきた。そのため世代によって、ときには地域によって、多少よびかたにちがいがある。

明治のはじめ、軍人や警察官を中心に洋式の制服が一斉に採用された時期は、とにかく間にあわせなければならないのだから、大量の既製服を海外から輸入しなければならなかったのは当然だ。既製服はいつはじまったかという議論もあるようだが、現実は洋服に関しては、既製服の方が先行していたのだ。

1872(明治5)年11月12日に公布された太政官布告第339号と第373号によって、1873(明治6)年1月1日以後、官吏の礼装は洋服と定められた(→年表〈事件〉1872年11月 「官吏の礼装を定める」東京日日新聞 1873/1/13: 付録1)。大礼服を着るのは新年宴会と天長節のほか、外国公使等参朝の節、とあるから、主として対外国人むけといってよかった。高級官吏の服装は費用も自前なので、すべて東京か横浜のテーラーに注文することになる。もっぱらその需要に応じるために洋服仕立て業界は発展した。

1890年前後(明治20年代)になると、高官貴族の夫人たちも洋装で晴れの場に出るようになる。1880(明治13)年11月3日に開かれた天長節の夜会は稀にみる盛会で、陸海軍楽隊の奏楽で舞踏―ダンスがあった。しかし出席したわずかの日本婦人がそれに加わることができなかったのは残念だと報じられている(→年表〈事件〉1880年11月 「天長節大夜会」東京日日新聞 1880/11/5: 2)。このころまでは天長節のような盛儀といえば、日本人女性は袿袴(けいこ)がふつうだったのだ。裾模様の和装ならともかく、花嫁の打掛風の袿(うちき)でのダンスはむりだったろう。

1884(明治17)年11月になってはじめて、婦人の通常礼服に洋服を用いることが認められた(→年表〈事件〉1884年11月 「婦人の通常礼服、通常服についての詳細な規定」【宮内省達】無号 1884/11/15)。折しもときはいわゆる鹿鳴館時代にかかっていた。1886(明治19)年6月には、宮内省から内達として、皇后も今後は場合によって洋服を着用されるので、皇族大臣以下の婦人も随意に洋服を用いるようにとの指示があった(→年表〈事件〉1886年6月 「皇后宮に於いても場合により西洋服装」【宮内省内達】1886/9/17)。

その女性の礼装を受注したのはやはり男子服の仕立屋だった。専業のドレスメーカーはまだいなかったのだ。そのためかなり多くの貴族女性が、フランスのオートクチュールにオーダーして製作させていた。当時の花形のひとりだった大山元帥夫人捨松はのちに回顧して、そのため今よりはあちらに近いものが多くはなかったかと、また大抵のものがじきに取りよせられた、とも言っている(大山捨松子 「鹿鳴館時代の思出」【婦人画報】1918/12月)。明治の末に、ある著者は「新しき商業中、洋服店ほど長足の進歩をなしたるものはなく」と言っている(安藤直方「洋服裁縫店」『実業の栞』1904)。たしかに1870、1880年代(ほぼ明治20年頃まで)の洋服店、洋服職人の増え方はめざましいものがあり、1887(明治20)年には東京府下に680余名の洋服業者がいたという(→年表〈現況〉1887年1月 「洋服商工組合」時事新報 1887/1/19: 1)。ただし細かくみれば年毎の景気不景気の波は極端で、この商売からの脱落者、あるいは見限って去った人もすくなくなかった(→年表〈現況〉1886年1月 「洋服職人の不景気」読売新聞 1886/1/21: 2;→年表〈現況〉1889年1月 「新年の概況―新年会」【風俗画報】1889/2月;→年表〈現況〉1890年1月 「洋服の注文少なし」郵便報知新聞 1890/1/1: 6)。

1880年代、1890年代の間歇的な洋服の人気不人気は、かなり大きく、政府の洋服化の熱意にも左右されていたようだ。その時代に常時洋服を着る人間といえば、だいたいは政府の意志に沿う方向をむいている立場の人間が多く、いわば開化の標識としての洋服だった。女性の洋装については長いあいだ、日本人の体型に洋服はむりだ、イヤそうでもないという議論が、多種多様の折衷服の提案をまじえてたたかわされた。日本女性の体型が洋装を受けいれられるように変わってくるのには、半世紀の時間が必要だった。しかし男性の洋服については、そんな議論が一度でもあったろうか。男性のための折衷服も改良服も、考える人などいなかった。男性の職業生活では洋服は必要品で、毎日勤め先まで利用する電車とおなじだった。ときには洋服業者を当惑させ、またスポイルしたのは、日本の多くの男性の、こうした洋服=通勤電車観だった。

洋服屋での仮縫いでも入社試験の身体検査同様、たいていの男は不機嫌でないまでも無表情で、ろくに鏡の中の己の姿など見ようともしなかったろう。洋服屋のあたまのなかには、ロンドンから送られてくるスタイルブックの中の、ダンディのイメージがあるのだが、日々相手とする金払いのいい客は、五等身の、スタイルやファッションなどにはなんの関心も知識もない、せいぜい生地についての感想くらいしか言えない旦那衆なのだ。

明治時代に生きた人々のフロックコートの晴れ姿や、よそ行きの両前の背広で反り返っている古いアルバムを見て気になるのは、着ている服のむだ皺の多さだ。なかにはドテラと間違えているのではないかと疑われるようなフロックさえある。

明治時代の日本人が洋装について心懸けたのは、この場合にはこの服、この服にはこの色のタイとこの手袋、といったリチュアル(儀典定式)だった。タイの色がまちがっていれば奏任官であっても公式儀礼のドアを入ることを、正装したドアマンに拒否される。しかしリチュアルの権化のような宮中儀典官やドアマンは、ファッションや、ジャケットが身体にフィットしているいないなどには、口をはさまない。

ファッションのことはさておき、美しさを損なう無駄なシワがないかどうかは、洋服、とりわけ男子洋服最大の眼目で、そのための技術――テーラリング・テクニック(tailoring technic)が男子服仕立の中心だ。ヨーロッパにおいて、とくにロンドンを中心にして19世紀の後半に、テーラリング・テクニックは頂点に達したといわれる。その技術の一端が東アジアではまず清朝末期の中国に伝わり、かなりの時間をおいて日本にも伝わった。神戸横浜などの初期の裁縫業者に中国人の多かったのはそのためだ。

テーラリング・テクニックがわが国に入ってきたとき、ふたつの問題に出会ったと考えられる。第一には欧米人と日本人の体型のちがいだ。裁縫家の頭のなかには当然、あの、日本女性の身体に洋装は似合わない、というのとおなじ思いがあったにちがいない。しかし幸か不幸か男子服については、似合う似合わないをそれほど問題にする余裕がなかった。多くの裁縫家もお客さん同様、半ば眼をつぶって仮縫いにあたったのだろう。

第二の問題は、ゆるい和服を着つけた日本の男に、和服と比べれば身体に沿った構造の洋服が窮屈に感じられる、ということだ。洋服は肩が凝る、というのが最初からの定評だった。ズボンは窮屈袋といわれた(→年表〈現況〉1925年3月 「家庭婦人の洋装の可否」朝日新聞 1925/3/x: 4)。また素材自体、羅紗などの毛織物地は、それまでの和服地と比べて重く感じられたかもしれない。

フィットネス(fitness)については誤解もある。ほんとうの意味でのフィットならば、きゅうくつではありえない。ロンドンのテーラーはフィットネスを、シティ・フィット(city fit)、ウエストエンド・フィット(westend fit)、カントリー・フィット(country fit)の三つに分ける。きゅうくつなくらいピッタリした服を好むのはシティのビジネスマンだ。一方、郊外でゴルフでもしようというときにはゆったりと羽折るようなカントリー風がいい。しかしダンディの集うウエストエンドでは、身体に快く沿った服がいい。紳士服のメッカ、サヴィル・ロウ(Savile Row)のあるのもウエストエンドのメイフェア地区だ。

近代前期の日本のテーラーたちがどのくらいの知識と、また技術をもっていたか、それは千差万別だろう。本場のロンドンでも、テーラリング・テクニックにはいくつもの流派があってしのぎを削っていたのだが、わが国でもかなり高い技倆や見識をもつ裁縫家が育っていた。舶来品商売、とりわけ洋服屋は、教えて売る商売ともいわれている。しかしそうはいっても営業者にはちがいない。ロンドンのモデルとはあまり似ていない体躯をもち、きものと畳の生活に慣れている旦那方に、ある程度までは迎合せざるをえないだろう。近代の洋服裁縫業者を育てたのも、またスポイルしたのも、そういうお客たちだ。

一方、ドレスメーカー、婦人服専門の仕立て業者の成長は大幅に遅れている。それはなによりも明治期を通じて、婦人洋装の需要自体がほとんどなかった、という状態のためだ。初期のドレスメーカーは横浜在留の外国人の妻たちのいわば内職か、男子服テーラーの片手間仕事で足りたようだ。そういう外国人女性の仕立ての広告が、横浜の新聞などに数多く見られる。

〈広告〉外国人による洋服の仕立代――黒羅紗上着 14~24ドル、同短衣 4ドル、同股引 7~8ドル、白短カキ上着 1~2ドル半、同麻股引 3ドル、同短衣 金縁の義ハ好ミ次第 横浜53番 ラダーシ
(→年表〈物価・賃金〉1868年10月 「外人による洋服の仕立代」万国新聞紙 1868/10月)

洋装の機会をもっていた少数のハイソサエティの女性の中には、わざわざパリまで注文する人もあり、文化財のようなオートクチュールの作品が、かなりの数、遺されている。この間の日本人業者、あるいは職人、また大きな役割を担った中国人業者の実情については、中山千代『日本婦人洋装史』(1987)に詳しい。

わが国の大きな都市の街角に〈婦人子供服お仕立て〉あるいは〈洋裁店〉の看板が見られるようになったのは1910年代(ほぼ大正前半期)に入ってからのことで、とりわけ関東大震災以後が発展期といえそうだ。【主婦之友】は1925(大正14)年新年号に〈素人に出来る新商売〉という特集を組み、そのトップに婦人子供洋服店をとりあげた。その中で、男子洋服店はどこでも婦人洋服の仕立てを持ち込まれて閉口しているから、まず近所の男子洋服店と特約すべきだと教えている。

女性が出入りする昭和時代の洋裁店は、こぢんまりした、明るく、ハイカラな店が多かった。小さなウインドウに、店主の手による春らしいワンピースが飾られていることもあり、流行スタイルの既製品が並んでいることもある。既製洋服は大戦後のような大企業によるものはまだ少なく、デパートの洋服売り場の商品でさえ、多くはほそぼそした家内工業的にか、個人の内職に近いかたちで製作されていた。

洋裁店の主人は戦後のように、ファッションだのデザインなどということを口にはしなかったろう。デザイナーという言葉はまだたいていの人は知らなかった。外国や日本のスタイルブックの中から気に入ったスタイルを選んだ客は、その多くは自信なげに、店主に相談したにちがいない。

(大丸 弘)