近代日本の身装文化(参考ノート)
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8. 民族と民俗 801 朝鮮人・朝鮮服 古代中世の日本が中国から受けいれた文物のほとんどは、朝鮮半島経由だった。しかしそれにしては、日本人のもっている朝鮮や朝鮮人についてのイメージは稀薄だ。古代から近世まで、どれほどの日本の知識人が、朝鮮の文化に関心をもったろう。天正少年使節や長崎出島のオランダ人のことは、どんな歴史教科書にも出ているが、朝鮮通信使がとりあげられるようになったのは、ごく最近のことだ。いくぶんか知られていた朝鮮の文化といえば、李氏朝鮮の陶磁くらいのものだった。日本の明治以降の一般大衆にとって、大陸に眼をむければ、底のしれない大き… 8. 民族と民俗 802 中国・中国人観 日本人の心の底には、漢字文化の宗主国としての中国を畏れ、敬う念が、時代が明治と変わっても根づよく存在していたはずだ。教養人の口をついて出るのは漢詩文の古典や、中国の故事だったし、すこし堅い書物の序文や、故人の顕彰などのため石に彫られる碑文には、なんの理由でか、だれでもすらすら読み下せるわけではない、無点の漢文が用いられていることが多かった。その一方で現実の清国は、阿片戦争(1840~1842)以後、欧米列国の餌のような状態をさらしていた。その状況は幕末の日本人にも伝わっていて、攘夷のひとつの根拠ともなっ… 8. 民族と民俗 803 中国服 酒館タイガの女給数人支那服を着て芝居に来るに逢う。婦人支那服本年春ごろより追い追い流行。夏物上下にて価四五十円より百円くらい、銀座松屋呉服店にて仕立てる由。女給のはなしなり。(永井荷風『断腸亭日乗』1926/9/9)中国服が日本で流行したのは1920年代後半、とりわけ1927(昭和2)年前後(→年表〈現況〉1927年9月 「流行の支那服」読売新聞 1927/9/13: 3)。流行は短期間で、その後の日本人の衣生活に具体的影響はのこらなかった、とみてよい。幕末に欧米人とともに来日した清国人のすがたは、当時… 8. 民族と民俗 804 ジャポニズム ジャポニズムということばは、19世紀後半のフランス印象派の画家たちによる、浮世絵愛好について云われたのが最初。おなじ時期の、イギリス、フランスの家具デザインやインテリアに、日本趣味があったように書かれている本もあるが、シノワズリー(chinoiserie)、つまり中国趣味とごちゃごちゃになっているようだ。シノワズリーははるかに古く、18世紀フランスの画家フランソワ・ブーシェの一連の作品もよく知られている。開国前後の日本が欧米、とりわけアメリカ人の好奇心の対象になっていたことはたしかで、クックはじめ旅行社… 8. 民族と民俗 806 東京人の見た関西 明治・大正期の東京人の、京大阪人の趣味に対する眼はかなりきびしい。江戸の人間にはながいこと、上方文化へのコンプレックスがあった。もうひとつ、とりわけ下町の江戸っ児といわれるような町人職人階級には、もの知らずと、ひがみ根性の裏がえしによる、よその土地の人間に対する江戸っ児ぶりの傲慢さがあった。それは開化の時代になってもすっかりなくなったとはいえないようだ。箱根山の東には化け物はいないとか、上方贅六といったセリフは、けっこう生きのこっていた。江戸とちがう上方趣味としてむかしからいわれたのが、京都の人間が身な… 8. 民族と民俗 807 大阪 東京の大きな特色は、わかりきったことながら、政治経済の中枢都市だということだ。政治、行政、司法等の中央官庁が多いのは当然だが、それに付随する機関――教育、研究、情報の組織、大企業の本社等、トップ官僚やエリートビジネスマンが、この都市に集中している。かつての江戸は江戸城を囲んで武家屋敷が形成され、武士の町であった。お城勤めの武士の正装が裃だったのに対し、フロックコート、モーニング、もしくは背広の三つ揃えという、近代の裃の普及のトップを切ったのが東京だったのは自然なこと。1900年代(ほぼ明治30年代)にな… 8. 民族と民俗 808 阪神間モダニズム 阪神間モダニズムということばがひろく認知されたのは、1997(平成9)年、兵庫県立近代美術館、西宮市大谷記念美術館、芦屋市立美術博物館、芦屋市谷崎潤一郎記念館の共同開催で、《阪神間モダニズム展》が開かれたころからだろう。明治の末頃から、神戸市の東部から西宮市にかけ、とくに大阪の実業家たちによる豪華な別荘がつぎつぎと建てられた。それと同時に彼らによる、当時の日本ではめずらしい地域コミュニティがなりたってゆく。阪神間モダニズムというときは、だいたいはその豪壮な建築物や、女性たちの華やかなライフスタイルがとり… 8. 民族と民俗 809 東京の学校 新政府になってまもない1871(明治4)年公布の戸籍法によって、東京も大区小区の区割りになったが、やがて1878(明治11)年の郡区町村編制法が施行され、東京の15区がうまれる。東京市の市制はその後の1889(明治22)年に施行された。麹町、神田、日本橋、京橋、麻布、赤坂、芝、牛込、四谷、本郷、小石川、下谷、浅草、本所、深川このほか周辺の8つの郡部をあわせたのが東京府だ。東京府の警察署は警視庁が管轄する。しかし警視庁は内務省の監督下にあったので、府知事の権威は弱く、東京市長はよく話題になったが、東京府知… 8. 民族と民俗 810 東京の楽しみ 近世の日本の大都市は、中近東や東アジア諸国にくらべると、一般市民の生活水準が比較的高く、そのため近世ヨーロッパ型に共通する市民文化が育っている。そのなかで開化後の東京がたしかに受けついだのは、各種の興行物であり、その中心にあるのが歌舞伎芝居だった。中小の地方都市でもいかがわしい旅役者のものもふくめて、小屋がけ芝居がないわけではないが、東京にくらべたら量も質も問題にならない。東京と地方都市との差をなによりもまず証拠だてるのは、数多い興行場のにぎわいだったにちがいない。金子春夢が1897(明治30)年に著し… 8. 民族と民俗 811 山の手と下町 海に面した集落が、海岸沿いの平坦な低湿地帯と、背後の丘陵・台地地帯に分かれるとき、生業のちがいからも、住民の気風に差異の出てくるのは当然のこと。海に近い地域ダウンタウン(downtown)が人口の密集した商業地域になり、都市機能の中心となっていることが多く、歓楽地帯もこの地域に多い。さらに大きな川の河口があるときは、都市機能も人口もそれにひきよせられるのがふつう。高台のアップタウン(uptown)は発展がおくれ、都市の性格、規模、交通の発達段階によって一様ではないが、林・牧・農地と、支配・富裕層の居住地… 8. 民族と民俗 812 銀座 ファッションステージとしての銀座は「銀座通り」なのだが、正式にはそういう地名はない。パリのシャンゼリゼとかロンドンのオックスフォード・ストリート、京都の丸太町通りのような道路名に沿って街区の番号がついているのとちがい、江戸・東京は街区のブロックに町名がつき、ブロックとブロックのあいだがべつに名前もない道になる。上野広小路、といった例外もあるが。しかしふつう、銀座、といえば、北は京橋、南は新橋という、あまりめだたない2つの橋でくぎられた俗称銀座通りをさす。道幅は約27メートル、そのうち歩道が左右、というこ… 8. 民族と民俗 813 横浜 『半七捕物帳』にはよく横浜に関係する話が出てくる。文久元年(1861)のできごとだという「異人の首」には、「この頃では横浜見物も一つの流行りものになって、江戸から一夜泊まりで見物に出かける者もなかなか多かった」とある。作者が半七老人に思い出ばなしを聞いたという日清戦争のあと(1895~)でも、「ハマ」から来たという人を、道理でハイカラななりをしている、というような見かたがあった。しかし横浜のもつ外国の香りの、つよい牽引力は、明治・大正を通じてうすれてゆく。もともと、横浜在住の外国人のなかで、圧倒的に多か…