近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 民族と民俗
No. 811
タイトル 山の手と下町
解説

海に面した集落が、海岸沿いの平坦な低湿地帯と、背後の丘陵・台地地帯に分かれるとき、生業のちがいからも、住民の気風に差異の出てくるのは当然のこと。海に近い地域ダウンタウン(downtown)が人口の密集した商業地域になり、都市機能の中心となっていることが多く、歓楽地帯もこの地域に多い。さらに大きな川の河口があるときは、都市機能も人口もそれにひきよせられるのがふつう。高台のアップタウン(uptown)は発展がおくれ、都市の性格、規模、交通の発達段階によって一様ではないが、林・牧・農地と、支配・富裕層の居住地域としても使われることが多い。

江戸の場合は、開発当初の17世紀はじめには、日比谷あたりまで海が接していたので、麹町から赤坂、四谷、小石川、本郷という城周辺のやや高台に、徳川家直参の将士――譜代大名、旗本、御家人たちの居宅を配し、背後の守りを固めた。現在でも戦災等での大きな被害を免れた各地の古い城下町には、なかに家があるのかどうかもわからないような、堅固な土壁をめぐらした武家屋敷がのこっている。壁と壁とにはさまれた道は谷間のようで、相当な距離をおいて造られている邸の門も、ふだんは閉まっているから、無愛想なことこのうえなく、夜の気味わるさが察せられる。

江戸時代、府内の土地の約80パーセントは武家屋敷と寺社の土地だった。江戸名物として「武士鰹大名小路広小路云々」といわれるのもむりはない。その武士のほとんどは山の手に住み、少数は、本所の吉良上野介のように、下町のところどころに、長い塀をめぐらした屋敷に住んでいた。

山の手風といえば武士風、ということになり、屋敷風という言いかたもあった。武士としての共通した生活基盤と意識はあったが(→参考ノート No.004〈廃刀令と士族〉)、ぜんぶが幕府直参の旗本御家人というわけではない。地方から出府して大名屋敷のお長屋に住んでいる田舎侍も多い。いわゆる浅黄裏だ。また、直参とはいえ、身分、生活程度のへだたりは大きかった。五千石以上の旗本になれば大名格だが、最下層は何俵何人扶持の御家人階級で、いただく扶持米だけではとてもやっていけず、日々内職にはげんでいた。麹町から青山にかけての傘産業は有名で、明治になってもつづいている。

四民平等の時代になってからは、神田三河町にいた半七が赤坂で余生を送っているように、下町と山の手の人の混交もはげしくなったが、それでも下町の人間と山の手の人間とでは、趣味や生活観にいくぶんのちがいが残ったといわれている。谷崎潤一郎は、「舟橋(聖一)君は山の手育ちなので、同じ東京生まれでも、下町で育った私とは和服の好みがいくらか違う。いったいに舟橋君の好みは派手で華やかすぎるように見える。私は若い時分からもっと渋いものを着た」 と書いている(『雪後庵夜話』1963)。

谷崎の見たこの「派手で華やか」な山の手趣味は、あの御屋敷風だ。それは明治になって、華族や高級官僚、政財界の要人の家庭にひきつがれた。1870(明治3)年には、それまで京都に住まっていた堂上公郷家をふくめ、華族はすべて東京に住むよう命ぜられた。追って1885(明治18)年、その華族や政府高官の姫君を訓育するための、華族女学校が創立され、開校式には昭憲皇后も出席している。華族女学校は民間の虎ノ門女学校とならんで、そんな山の手風の令嬢のメッカだった。

華族女学校が創立された明治18年は、あの束髪ブームのはじまりの時期だった。令嬢たちは率先して束髪に結いかえたが、それまでは高島田だった。現代では花嫁さんの髪型になっている高島田をだれもがほこらしげに結って、校門をくぐった。

それに対して下町の娘はたいていは桃割れだった。唐人髷や、すこしあとの時代になると結綿(ゆいわた)も好まれた。下町の人間の目には、島田はやや大仰なものに映ったにちがいない。それにくらべると、桃割れや結綿はかわいらしい髪だった。

束髪の時代になっても、下町では束髪を結う娘などいなかった。あんな異人臭い、趣味のないかっこうには反感をもっていたろう。下町娘は1890年代(ほぼ明治20年代)あたりまでは、襟元を大きくあけて半襟をみせ、着物にはかならず黒襟をかけていた。彼女たちの女学校への進学率は低く、たいていは家業の手伝いや、稽古所へ通っての針仕事の修練、すこし余裕のある家の娘は遊芸を習ったりして、嫁入りの日を待っていた。

粋は山の手にはない、といわれる。山の手の野暮に対して、下町の洗練された趣味を生んだのが、下町の華だった芸者たちの、職業的な錬磨だったことはたしかだ。また、生き馬の目を抜くような土地で生活する人間の才覚と、江戸町人の、抑圧への抵抗もあったにちがいない。それはさらに「渋味」とか「至り」とかいう美学にも通じる。

ただし、それとあわせて、下町の人間の古いしきたりやきまりごとをだいじにする、あるいはそれに縛られて、新しいものには臆病、という見かたもできなくはない一面を、下町新聞といわれる[都新聞]は、つぎのように描いている。

著しく目立つのは、山の手風俗と下町風俗との相違が、年々にかけ離れて 行く事である。(……)下町はいざ正月となると立派に古風な固い礼装を整えるが、山の手の人は益々礼儀に叶わぬ姿をしたがる。云うまでもなく山の手には洋服でまわる礼者が多いからなのであろう。(……)変わったものは白足袋の廃った事である。相当に几帳面な服装を揃えていながら足袋だけは平気で紺足袋を穿いている人が、今年に至って八分を占めるほどになった。(……)下町の人はちゃんと表付き白鼻緒の下駄を穿いているが(……)。
(→年表〈現況〉1918年1月 「初春の年賀風俗」都新聞 1918/1/8: 5)

一口に下町風とは言っても、子細にみればそのなかにもう少し小さな地域性があるともいう。土蔵造りの大店がひさしを並べる日本橋あたりのお嬢さまと、芝や神田辺の裏店のお上さんや娘が、おなじ襟付きの下町風であっても、どこかはちがう。それはとりわけ芸者の風俗でよく指摘される。時代が昭和になるころでも、新橋芸者と柳橋芸者とは帯の結びようがちがうとか、日本橋、葭町(よしちょう)になるとまた一目見てわかる、という通人がいた。それは贔屓の呉服店にも現れているという。

新橋芸妓は七分三越呉服店にて調整し、柳橋は過半太田(日本橋東仲通りの道明太田)、津田(本町一丁目の津田屋)両家に依頼する者多きも、中には京阪地方の有名なる呉服店へ特に注文するもありとぞ。
(→年表〈現況〉1906年1月 「春着のいろいろ」【文芸倶楽部】1906/1月)

東京の膨張につれ、地方からの流入者は、区域のかぎられている下町よりも、山の手とその周辺部に多く住むことになった。世田谷、杉並、目黒から、その外辺までが漠然と山の手と意識されるようになる。神田、日本橋辺の旧下町っ子にとってみれば、かつての屋敷風とは違いながら、どこかに共通点のある、一種の新山の手風が感じられるのだ。

その一方で、下町と意識される地域も拡大して、それは単に商工業地域、庶民の町、ということであり、かつての、江戸っ児の住むところ、とは別のものになっている。

(大丸 弘)