| テーマ | 民族と民俗 |
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| No. | 810 |
| タイトル | 東京の楽しみ |
| 解説 | 近世の日本の大都市は、中近東や東アジア諸国にくらべると、一般市民の生活水準が比較的高く、そのため近世ヨーロッパ型に共通する市民文化が育っている。そのなかで開化後の東京がたしかに受けついだのは、各種の興行物であり、その中心にあるのが歌舞伎芝居だった。中小の地方都市でもいかがわしい旅役者のものもふくめて、小屋がけ芝居がないわけではないが、東京にくらべたら量も質も問題にならない。東京と地方都市との差をなによりもまず証拠だてるのは、数多い興行場のにぎわいだったにちがいない。 金子春夢が1897(明治30)年に著した『東京新繁昌記』によると、東京の劇場を代表するのは木挽町の歌舞伎座で、一幕見をふくめて総計1,982人を収容した。歌舞伎座のほか、明治座、市村座、東京座、春木座をもって五大劇場とする。大劇場は絵看板以外、幟(のぼり)のたぐいを場前に一切かかげない。「これ各地方の劇場とことなり品格の高きを証するものにして、東京にても右の修飾を用いて景気を添ゆるは小劇場なり」といっている。その小芝居をふくめて、明治30年のこの時点で市内には17の劇場があった。有名な新富座はまだ残っていたがすでに老朽化して、大劇場の数には加えられていない。わずか20年前の新装開場時にはその近代的設備が人目をおどろかせた、というのだから、「以て如何に現今の劇場の進歩したるかを見るべく、また如何に旧劇場の不完全なりしかを知るべし」(→年表〈事件〉1878年6月 「新富座、新装開場」『歌舞伎年表』1878/6/7)。 夏目漱石の『三四郎』(1908)の主人公のような地方から来たばかりの人に、東京の檜舞台の芸の機微がわかるかどうかは疑わしい。江戸っ児の谷崎潤一郎は『羹』のなかで、地方出の青年が、東京人たちのしている劇評に、ひとり仲間はずれになっているさまを描いている。しかしお上りさんは、御殿のような歌舞伎座の建築や回り舞台や、田舎まわりの團八郎でなく、ほんものの團十郎を見たということで、じゅうぶん満足が得られたろう。 東京節のなかでも紹介されている活動写真は、1910年代(明治末~大正初め)といえば、まさにすごい勢いの勃興期だった。活動写真――映画がうち負かしたものが、緞帳芝居といわれた小芝居であり、あの「ドウスル連」で名高い娘義太夫であり、また多くの寄席だったろう。 映画人気以前の東京にはじつにたくさんの寄席講釈場があった。それにともなって寄席芸人の数も多かった。三遊亭圓朝の弟子、孫弟子が500人余もいて、そのどんなひとりをも食いっぱぐれのないように、圓朝はしてやっていたといわれるが、それはすくなくとも彼の生きているあいだは(~1900)それだけの席があった、ということだ。岡田常三郎の『大日本統計表』(1889)によると、東京市内に住む落語家は3,461人、軍談師つまり講釈師が1,462人あった。色物席ではこのほか各種音曲、義太夫、浪花節、曲芸なども加わる。それに対する席の数は、『東京新繁昌記』はその主なものとして72軒をあげているが、同時代の新聞の寄席案内を見ると100軒はあるようだ。 1910年代から1930年代(大正~昭和前期)にかけては寄席の数の減少と、活動写真館の急激な増加との交錯する期間だった。もっともこの傾向は地方から出てきた人たちにはありがたいことだったろう。第二次大戦前のわが国の方言のつよさはいまでは想像もできない。東京人にしか通じないしゃれやくすぐり、などという以前に、寄席芸人の流暢な江戸弁はわかりにくかった。その時代の寄席の話芸は、東京的な、あるいは東京人のための東京の芸であって、日本人全部に開かれた東京の文化ではなかった。 その点で地方から来た人にももっとも開かれた都会文化は、浅草の活動写真や軽演劇、そして見世物のたぐいだったろう。 灯火の街、不夜城の光景に酔わされる浅草六区の毎夜の賑わいは、天に轟き地に鳴るどよめきに知らる、浅草一日の群衆は、平均すれば二百万人と称す、仲見世の花時の如き、人間といわんより芋を揉むというが適語である。 同書によると、関東大震災前年のこの年、興行物として劇場6軒、観物場(みせもの)3軒、演芸場11軒、活動写真館13軒が、いずれも大入満員ならざるはなく、「一度脚をこの歓楽場に踏入れなば、大東京人の低級娯楽の本性に触れられ、慄然として怖ろしき心地もすれど」云々と。 浅草に代表されるような賑わいは、いわばお祭りの興奮と喧噪と言ってよい。自分の住んでいる村ならば年に一度あるかなしかの、そのときだけは何でも大目に見て許される非日常のとき、それがここでは毎日つづいている。永遠の祝祭という陶酔的情景は、大都市だけがつくりだせるまぼろしだ。 それとくらべると銀座に代表されるファッションステージの様相は、かなりちがっている。ここもまた大都会だけが生みだすことのできる舞台なのだが、そのひろい石畳のプロムナードは、だれにも開かれていながら、ある人々にはよそよそしさをもっている。 モダン生活とは(……)つまりは新しい生活の営まれている都会の中のある特定の場所にのみ、局限された生活表現であるらしい。即ちそれは銀座とか、丸ビル十字街とか、日比谷とか、(……)極く狭い地域にのみ限られたものであり、何々ビルの一室のダンスホールや、カフェや、ソーダファウンテンや、千疋屋の二階にのみ発見される存在であり、映画館の椅子席に、音楽会場の廊下に、そしてレストランのサロンにばかり営まれる生活である。 たくさんの顔をもっている大都会は、そのひとそのひとの棲むべきところをきめつけるような、冷酷さも持っているのかもしれない。 やがて、大都会の機能と、にぎわいと、訪れる人に与える幸福感の凝縮として成長したのは、新興のデパート売場だったろう。郷里から持ってくるはずだった手織紬とおなじ品物に、三四郎は三越や高島屋の売場で出逢う(?)。しかも田舎の呉服屋で手代と膝詰談判のように買わされるのではなく、もっと勝手なチョイスのうえで。日本中のものがなんでも集まっているのが、大都会――東京の特質であり、その利点をもっともわかりやすくしてくれたのが1920(大正9)年以後の百貨店だった。残念ながら小説『三四郎』の時代は、それよりかなり早かったが。 (大丸 弘) |