近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 民族と民俗
No. 804
タイトル ジャポニズム
解説

ジャポニズムということばは、19世紀後半のフランス印象派の画家たちによる、浮世絵愛好について云われたのが最初。おなじ時期の、イギリス、フランスの家具デザインやインテリアに、日本趣味があったように書かれている本もあるが、シノワズリー(chinoiserie)、つまり中国趣味とごちゃごちゃになっているようだ。シノワズリーははるかに古く、18世紀フランスの画家フランソワ・ブーシェの一連の作品もよく知られている。

開国前後の日本が欧米、とりわけアメリカ人の好奇心の対象になっていたことはたしかで、クックはじめ旅行社が日本旅行を盛んに宣伝し、それに釣られて大勢のアメリカ人観光客が日本を訪れた。きびしい行動制限があったとはいえ、観光客は維新前後の日本を目の当たりに見ているのだが、しかし欧米人がもつ日本の印象は、その後の「輸出用日本」によって形づくられたものの方が比重が大きいだろう。

19世紀後半は、1851(嘉永4)年の第1回ロンドン万国博覧会の大成功のあとを追って、欧米では博覧会ブームとでもいうべき時期だった。そのため開国したばかりのわが国にも、つぎつぎに博覧会への招聘状が届けられた。すでに1871(明治4)年にはサンフランシスコ博覧会への出品勧誘があり、1878(明治11)年には第3回パリ万国博覧会、翌年はシドニー博覧会、1884(明治17)年にはロンドンの衛生博覧会、1888(明治21)年にはベルギーのスパーでの万国美人博覧会、そして1903(明治36)年にはロシアのサンクトペテルブルクでの万国服装博覧会と、そのたびにわが国では手ぐすねひいて出品物をえりすぐった。1884年には博覧会の目的にそって銭湯の石榴口(ざくろぐち)を送っている(→年表〈事件〉1884年2月 「万博に石榴口の雛形を出品予定」郵便報知新聞 1884/2/26: 3)。銭湯の石榴口は、明治17年というこの時期、わが国ではすでにめずらしくなっていた。外国むけの出品物といえば、一般庶民の日常からはかけはなれた美術工芸品か、時代ものの骨董品かがどうしても多くなる。

日本のイメージをつくるのに少なからぬ働きをしたと見られるのは、この時期欧米を巡回した「日本ショー」だったろう。1884年の[郵便報知新聞]は、しばらく日本に在住し日本女性を妻としたオランダ人タナルカなる者が、人力車夫、瞽女(ごぜ)、按摩、願人坊主などを雇って欧州を巡業、わけのわからない芸を見せたり、日本風俗博覧会を開いたりしていると報じ、「苦々しき次第なり」と結んでいる(→年表〈現況〉1884年7月 「ロンドン近郊の日本風俗博覧会」郵便報知新聞 1884/7/26: 3;→年表〈現況〉1884年11月 「日本風俗博覧会」郵便報知新聞 1884/11/6 :2)。この種の興行物はほかにもあったらしく、喰いつめた力士一行が、化粧廻しをして踊りをおどってみせた、などという醜態もあった。

1885(明治18)年4月、ロンドンで歌劇《ミカド》が上演され、7年後にはニューヨークで再演されている。《ミカド》で用いられた日本風コスチュームの奇妙さもさることながら、ことが皇室に関わるというので、在米日本人のなかには憤激し、領事に公演差止めをせまる人もあったようだ。しかしこのあたり狂言の印象はつよく、その後の歌劇《マダム・バタフライ》のコスチュームや、その後の、日本をあつかった舞台、ミュージカル、映画にもながく影響がのこる。

怒る人のある一方で、パリではミカド商会という看板をあげている日本人の店もあり、この店では《貞奴キモノ》を、写真入りで雑誌広告している。

海外で「ミカド式」に受けいれられた日本風、あるいはキモノとは、厚綿の入った、すべすべした繻子地に刺繍沢山の、それもドラゴンなど清朝末期風装飾過多のものが多く、それは日本では後々まで外国人向けスーベニア専門に製作された。しかしその一方で、前割れのガウン式スタイルは、1900(明治33)年以後、欧米の日常生活のなかに入っていった。前でうち合わせのガウンが、それまで欧米になかったわけではない。だからそういったデザインのすべてがジャポニズムとは言えないが、あきらかにニホン・キモノそのままを部屋着として用いている例もたくさん認められる。日本を訪れた欧米人が、ホテルで貸す浴衣の快さに味を占めたため、という人もある。しかし前割れの衣服は、裾がまくれてしまったりして、じつは横になって寝るのには向いていない。欧米人はベッドウエアとしてキモノ式のデザインを着ることはなく、ふつうはベッドウエアの上にはおるか、部屋着のキモノガウンとしてだ。

明治時代に日本を訪れて、日本人の生活を観察した欧米人は、ほぼ口を揃えて着物の美しさを讃える一方、日本人が洋装することの無意味さ、あるいは不利を説いた。なにかにつけて教師か、少なくとも賢い助言者の立場だった欧米人のことばは、日本人の衣服改良の意欲に水をさしたが、しばらくすると、外国人のお世辞にのってはならない、という反省がうまれる。

欧米人がきもののいちばんの欠点として指摘するのは、帯結びだった。コルセットになれていた19世紀後半の欧米女性は、帯が胴体をしめつける窮屈さはべつだん気にならなかったらしいのだが、大きなこぶのようなものを背負うのは奇妙だと言う。ことに羽織を着ていると帯が見えないため、日本の女性はみんなせむしのようだ、と。

これは単に見なれの問題にすぎないとも言えるが、欧米人のキモノは決定的に、どんな場合でも帯結びを排除した。30センチ幅の帯をいちばんの見栄えとしている日本人の和装に対して、欧米人のキモノはからだを拘束しない、優雅なシルエットを愛している。

日本人の和装が現代になって、ほぼ細帯の浴衣に絞られてきたのは、キモノガウンへの接近の第一歩なのかどうかは、まだわからない。

(大丸 弘)