近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 民族と民俗
No. 808
タイトル 阪神間モダニズム
解説

阪神間モダニズムということばがひろく認知されたのは、1997(平成9)年、兵庫県立近代美術館、西宮市大谷記念美術館、芦屋市立美術博物館、芦屋市谷崎潤一郎記念館の共同開催で、《阪神間モダニズム展》が開かれたころからだろう。

明治の末頃から、神戸市の東部から西宮市にかけ、とくに大阪の実業家たちによる豪華な別荘がつぎつぎと建てられた。それと同時に彼らによる、当時の日本ではめずらしい地域コミュニティがなりたってゆく。阪神間モダニズムというときは、だいたいはその豪壮な建築物や、女性たちの華やかなライフスタイルがとりあげられるのだが、生協活動や学校、病院の設立など、地域コミュニティに関してもっと眼をむけるべきだ、という主張もある(竹村民郎「阪神間モダニズムの社会的基調」『関西モダニズム再考』2008)。

1910年代(明治末~大正初め)の東京、大阪では、適当な住み処を都市部に見いだしにくくなった人々が、周辺地域にあふれはじめていた。水道もガスもままならない、悪路と交通不便は当然のようだった、赤いスレート屋根の文化住宅村の時代だ。

それとはかなりちがう理由だったが、都会生活に疲れた実業界の成功者たちや富裕層が、まだ水と緑に恵まれていた地域に、第二の生活拠点を見いだそうとしはじめてもいた。この種の人々を迎えて、大都市郊外の新興高級住宅地が形成されていった。東京でいえば東急電鉄沿線の田園調布、小田急沿線の成城学園付近、大阪でいえば南部に帝塚山、東部に生駒-西大寺間、そして西部に西ノ宮、芦屋など六甲山麓地帯。

レースのカーテンのある洋間が、飾りのようにひとつだけついた安普請の文化住宅も、この高級住宅によりそうように、その周辺に密集しはじめた。当然のことながらそういう地域には先住者がいた。その多くは大都市に野菜などを出荷している近郊農家だったが、都市周辺部にはかならず付随する貧困者の集落もあった。またその一部として同和部落のあることもめずらしくなかった。

高い塀にかこまれた数千坪という別邸の奥に住む人と、20円かそこらの家賃の家に住んでいる人に、共通するところはなにもないようだが、ひとつあるとすれば、どちらの生活者にも、日々の生活意識のうえでの拘束感が、比較的弱かった、ということではないだろうか。

軒を接した下町ぐらしでは古い習慣が律儀に守られる。それは親の世代からの顔見知りのあいだでの相互干渉と、相互監視が――ときには親切と人情という名で――いつもおこなわれているためだ。よそ者のあつまりの新興住宅地では、貧乏人どうしのあいだにも、そういう気づかいが少なかった。

多くの日本人にとってのこのようなはじめての体験は、いまマンション暮らしの特色といわれる「隣はなにをする人ぞ」風の疎外感と共通する。世間の眼、もっと直接的にはご近所の眼をあまり意識しないですむことは、日々の行動でも、装いにおいても、生活するひとに解放感をあたえたちがいない。

高い塀のなかに住む奥様たちの手にした自由さも、基本的にはそれと違うことではなかった。芦屋の別荘に住んでいた大正三美人の一人、高安やす子は、明星派に属する歌人で、芦屋の女流短歌会紫弦社を主宰、わが国最初の女性洋画団体・朱葉会のメンバーでもあった。彼女が長女の結婚に、それまでの長持ち十何荷の数をほこるような披露の形式をまったくとりやめたことはよく知られている。しかし娘時代から結婚当初の彼女は、どちらかといえば船場風の華やかな好みだったそうだ。合理的簡素生活への転機は、芦屋の別荘での日々のくらしのなかで見いだされている。それを可能にした理由のひとつは、道修町の高安病院の、院長夫人の立場からきりはなされたことだったろう。

高級住宅地として発展したという点だけをみれば、阪神地域は東京の田園調布、成城、大阪の帝塚山等と変わりはないようだが、ひとつだけほかの地域との大きなちがいは、神戸という、明治大正期には特異な性格をもっていた大都市に、隣接していることだろう。芦屋マダムといったことばもあって、近年は阪神間の高級住宅地の中心は芦屋市のように思っている人も多いようだが、大阪の富豪たちの別邸建設の中心地域は、じつは住吉、御影地域であり、現在の神戸市の一部なのだった。

もともとこの地域は灘五郷といわれ、名のしられた酒造地だった。明治中期以降の灘五郷は西ノ宮郷、今津郷、魚崎郷、御影郷、西郷の5カ所で、このうち魚崎以下が、現在の神戸市東灘区に入る。御影、灘には山邑、辰馬、嘉納、若林といった、酒造を代々の家業とする旧家が多く、明治大正期の神戸市の経済には無視できない力をもっていた。白鶴酒造の嘉納治兵衛、菊正宗の嘉納治郎右衛門、櫻正宗の山邑太左衛門らが出資して1927(昭和2)年に設立した灘中高等学校の顧問には、その時代のわが国の代表的教育者である講道館の嘉納治五郎が、一族として迎えられている。この地域に生活の一部を移した紳士とその家族――朝日新聞社の村山龍平、野村財閥の野村徳兵衛、鐘紡の武藤山治、安宅商会の安宅弥吉、伊藤忠・丸紅の二代目伊藤忠兵衛、岩井商店の岩井勝次郎、東京海上火災保険の平生釟三郎等々には、彼らを迎えるにふさわしい、豊かで育ちのよい、しかも神戸人らしいモダンさも身につけた、土地の旦那衆が存在したのだった。新参の居住者が主導した、地域コミュニティ活動のほとんどが軌道にのって、今日まで発展しているのも――神戸生協、甲南大学、灘中高等学校、甲南病院など――地元のつよい協力があればこそだったろう。制服を学校も生徒も誇りとした時代に、あえて非制服主義を標榜した神戸女学院の発展も、西ノ宮のこのような土壌をひとつの力としたにちがいない(→年表〈現況〉1915年4月 「非制服主義の女学校」大阪毎日新聞 神戸版 1915/4/14: 付録1)。

彼らの交際場所は日本最初のコースが作られた六甲山や、宝塚のゴルフリンクであり、シティホテルとして古い歴史をもつオリエンタルホテル、またリゾートホテルとしては六甲山オリエンタルホテル、六甲山ホテル、甲子園ホテルなどだった。神戸と阪神間のホテルが栄えたのは、ひとつには1935(昭和10)年の新大阪ホテル開業まで、大阪には顔となるような本格的ホテルがなかったためといわれる。そのため味にうるさい大阪人のためにも、オリエンタルホテルは料理のおいしさにおいて、とくに定評があったそうだ。

(大丸 弘)