近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 民族と民俗
No. 812
タイトル 銀座
解説

ファッションステージとしての銀座は「銀座通り」なのだが、正式にはそういう地名はない。パリのシャンゼリゼとかロンドンのオックスフォード・ストリート、京都の丸太町通りのような道路名に沿って街区の番号がついているのとちがい、江戸・東京は街区のブロックに町名がつき、ブロックとブロックのあいだがべつに名前もない道になる。上野広小路、といった例外もあるが。

しかしふつう、銀座、といえば、北は京橋、南は新橋という、あまりめだたない2つの橋でくぎられた俗称銀座通りをさす。道幅は約27メートル、そのうち歩道が左右、ということは東西それぞれに約6.3メートルずつ。ちなみにシャンゼリゼ通りの道幅は70メートル。

現在は北の京橋を起点として銀座1丁目、2丁目と、新橋際の8丁目までわかりやすい町名になっている。東側も西側もおなじ銀座1丁目2丁目なので、東銀座西銀座と区別したりするが、これは行政上の名称ではない。1933(昭和8)年までは、銀座5、6丁目は尾張町1、2丁目、銀座7丁目は竹川町、新橋際の8丁目は出雲町だった。

鉄道が発達してからの都市は、鉄道敷設以前にすでに堅固な石造りの街並みができていたヨーロッパの古い都市はべつにして、幹線鉄道の中央駅が玄関口のようになることが多い。1872(明治5)年9月、新橋横浜間にはじめて鉄道が開業すると、東京の玄関である新橋、すなわち東京駅の前から、北にまっすぐ都心にむかってのびる銀座通りは、都市機能の上からも、東京のもっとも重要な道路となった。1882(明治15)年の鉄道馬車の最初のルートは銀座通り。1903(明治36)年、馬車鉄道が動力を馬から電気に換えた東京電車鉄道、つまり東京市電もおなじ、1934(昭和9)年の地下鉄道もおなじく銀座通りの下を通った。

銀座通りのこうした位置は、都市景観としても誇るにたるような整備を求められた。1872年の大火による銀座とその周辺の焼失後、欧米の都市を見てきた識者の助言により、煉瓦造りの街並みの建設に着手、5年後には完成。1874(明治7)年1月には、一直線で平坦な馬車道が整備され、都市街路樹としては日本ではじめて、松、桜、樅等が植樹された。おなじ年の年末には、京橋金杉橋間に、85基の瓦斯燈が点灯された。

街路樹は1877(明治10)年に、もともと埋め立て地で、多湿な銀座に適した柳に植えかえられた。柳はその後半世紀近く銀座のイメージをつくったが、1921(大正10)年に自動車の増加にともなう車道の拡幅のため、銀杏に植えかえられた。その後1932(昭和7)年になって、銀座の柳を懐かしむ人々の要望をいれ、ふたたび柳が登場する。

銀座はこのように、東京の玄関につづく広い廊下――ギャラリーとして発展した。機能としてはむしろ、ヨーロッパの都市における広場プラザ(plaza)に通じるものがあるともいえる。プラザは威圧的なカテドラルと市庁舎にはさまれているが、定期的に市がひらかれ、遠いところから訪れた商人や旅芸人がここで商売をし、市のないときも、広場を囲むテラスはのどを潤すものと、座る場所を提供してくれるから、市民はここへ来れば知人のだれかれと出会うことができ、憩いや、また情報交換の場でもあった。

銀座通りが、都市機能のだいじなひとつである交通手段をまず整備させたことは、銀座に集まる人の足を容易にしただけでなく、周辺から反対側の周辺に行く人も、銀座を通ってゆく方が便利と思わせるようになった。

明治時代の銀座通りには、わざわざ訪れるような商業施設はまだ少なかった、という見方もある。とりわけ食べ物屋は少なかった、と鏑木清方も回顧している。そのころの銀座は新聞社や、出版、印刷関連の中小の企業の多いところだった。『江戸名所絵図』などを見ると、江戸時代には、尾張町あたりに大きな呉服店のあったことがわかる。しかしそういった店は幕末の動乱から、煉瓦街の建設までのごたごたで、大かたは廃絶してしまった。1890年代から1900年代にかけて(ほぼ明治20年代~30年代)の、大きな集客力をもつ呉服店といえば、三井、白木屋、大丸、そして大彦など、ほとんどが日本橋方面に集中している。三越、松屋、松坂屋などのデパートが銀座に進出してくるのは、1923(大正12)年の関東大震災以後のこと。

一方、歌舞伎座、新富座は銀座からは三十間堀を越えた築地だった。時代が下がって、新橋演舞場も東劇も、やはり川向こうだった。帝劇はじめ、1930年代(昭和戦前期)以後の日比谷映画街も、銀座からはわずかながら距離がある。

東京ではめずらしく、銀座そのものには花柳界らしいものはなかった。けれども一歩あしをのばせば、古い伝統をもつ葭町や、日本橋の花街がひかえている。日本橋芸者には、新橋とも柳橋ともちがう感覚があったという。もちろんそれは銀座が近い、というためだったろうが、逆に銀座は、ウインドウを覗いている姐さんたちの、アメリカかぶれのモガモボたちとは段ちがいの洗練されたお色気に、大きな影響をうけていた。

霞ヶ関周辺の官庁、丸の内周辺のビジネス街、そこで働く人たちにとっても、銀座へ出れば、そこから電車のふた停留場かそぞろ歩きで、どんな楽しみも手に入れられる。それは山の手に住む奥様方にとってもおなじことだった。パウリスタのブラジルコーヒーや資生堂パーラーのアイスクリームは、そんな想いをめぐらすのに役だったろう。

かつて三越の日比翁助専務が、「日本には高価な衣裳をつくる上流階級の奥様方が、それを着て出る場所がない」と語った(→年表〈現況〉1903年3月 「服装の意匠」国民新聞 1903/3/6: 3)。日比専務の考えているような空間とはちがうかもしれないが、すくなくとも関東大震災後の銀座は、東京の、というより日本の貴重なファッションステージに成長した。

もっともファッションステージといってもそれは、パリのフォブール・サントノレや、ニューヨークのメトロポリタン劇場のフォワイエ(foyer)とはちがう。郊外の木賃アパート住まいの女房も、栄養不良の若い職業婦人もが、いちばんいい錦紗のきもので、気どって歩くステージだ。思いきってはじめて髪にアイロンをあてた奥さんも、女学校を卒業して髪を伸ばして、はじめて高島田を結ってみた娘も、ひとの眼を気にしながら銀座の人波に加わる。

されど、されどあたしの云いたいのは、この煩雑乱劇の銀座が、一面において東京人士の漫歩の地であると云うことだった。所謂銀座をぶらつくと云うことが、「銀ぶら」という新熟語を造ったほど、新東京の人びとは、この雑踏の地を、好んで漫歩するのである。(……)朝となく昼となく夜となく、彼らはぞろぞろと漫歩するのである。(……)じろじろと行きずりの人に視線を投げかける人の多いのも、確かに銀座漫歩の人の特長である。だからもし、容色、着物、子供なぞを誇ろうと思う人は、何よりもまず銀座を歩くがいいと思われる。
(山科京子「銀座街頭」【婦人画報】1920/9月)

いま銀座を歩いている女性はこんな恰好をしている――というだけの1枚のスナップ写真が、流行ニュースとして、あるいは高名な美容家の解説付きで、全国の家庭の茶の間にとどけられる。ときには話題の断髪女性を、銀座街頭で撮影してくるよう命ぜられたカメラマンが、新橋から京橋のあいだを半日さ迷って、一枚も写せなかった――という「流行」もある。

1910年代以後(ほぼ大正~)になると、色消しな存在だった新聞社やその関連企業が順次すがたを消し、代わってパウリスタなどの喫茶店や、資生堂パーラー、千疋屋などの個性的な飲食店が街並みの顔となる。銀座を愛するひとのなかには、たくさんの文人、芸術家、芸能人たちの名前が記憶されている。そんな風で、どちらかといえばインテリ好みの一面もあった。その人たちにとっては丸善、山野楽器、伊東屋等の存在も小さくなかったろう。淺草はべつとしても、周辺部の盛り場――新宿、池袋、渋谷などにくらべて、銀座がどこかよそよそしいといわれ、人によると、銀座はもう過去の街、とまでいわれるのは、銀座のもつ、そのややハイブロウな表情のせいかもしれない。

(大丸 弘)