| テーマ | 民族と民俗 |
|---|---|
| No. | 803 |
| タイトル | 中国服 |
| 解説 | 酒館タイガの女給数人支那服を着て芝居に来るに逢う。婦人支那服本年春ごろより追い追い流行。夏物上下にて価四五十円より百円くらい、銀座松屋呉服店にて仕立てる由。女給のはなしなり。 中国服が日本で流行したのは1920年代後半、とりわけ1927(昭和2)年前後(→年表〈現況〉1927年9月 「流行の支那服」読売新聞 1927/9/13: 3)。流行は短期間で、その後の日本人の衣生活に具体的影響はのこらなかった、とみてよい。 幕末に欧米人とともに来日した清国人のすがたは、当時の錦絵にも描かれてる。日本人にとってはこれが最初の、近代中国服との出会いだった。 『半七捕物帳』の「唐人飴」のなかには唐人の恰好をした飴屋が登場する。「更紗でこしらえた唐人服を着て、鳥毛の付いた唐人笠をかぶって、沓をはいて、鐘を叩いて来るのもある。チャルメラを吹いて来るのもある」これは1851(嘉永4)年のはなしで、すでに外国船の来航しきりの時期だったが、直接にはそれとは関係なく、当時人気のあった唐人踊りの衣裳を、いいかげんにまねたものだろう。唐人踊りの流行は、明治時代にかけてもかなりのものだったようで、落語の「らくだ」でも、らくだの友達も屑屋も、唐人踊りの「かんかんのう」は、おたがいによく知っているものときめこんでいる。 江戸時代を通じて、長崎には明、清国人がつねに出入していた。乏しくかつ不正確な情報とはいえ、中国の文物、風俗は日本人の知識の一部ではあった。「かんかんのう」にしても、九連環という清楽に一応はもとづいている。ただし、中国の文物にもっとも通じているはずの漢学者、具体的には朱子学、陽明学を信奉する儒者たちの眼がむけられていたのは、もっぱら宋代、明代、あるいはそれ以前の中国だったろうから、目前の清朝の、それも風俗などについては、どれほどの関心があったろうか。唐人飴屋の恰好にしても、朝鮮通信使との混同もあるようにもみられる。 開化後は、居留地に在住するたくさんの清国人によって、中国人の生活風俗を目の当たりにする機会が得られるようになった。そしてそれにもます情報がえられたのは、日清戦争(1894、1895)、北清事変(1900)、日露戦争(1904、1905)を機会にしての、日本人の大陸進出による。ただし出兵という状況からの観察であるため、その理解には多くのバイヤスがあるにちがいない。 そのひとつは大陸人の不潔さの印象だ。これは水に不自由のない海浜型文化のなかで育った日本人が、内陸地帯の、めったに衣服を洗うこともない中国人の風習に出逢えば、当然のことだった。この時代の日本人が、中国人の日常着を持ち帰ったなどという記録はほとんどない。またつい昨日まで丁髷を結っていた日本人の眼に、清国人男性の弁髪は滑稽にうつった。 中国服に対する日本人の関心は、和服への不満を根にもった、改良服の模索とも結びついていた。おなじ外国の衣服を参考にするなら、文化も体型も西洋人より身近な、アジア人の衣服にもっと眼をむけるべきだ、という理由による。だから朝鮮服を賛美する意見もあった。とはいえほかの改良服同様、そのときかぎりの提案にとどまった。 しかし1920年代後半(昭和初め)の中国服人気は、中国服の側に、海を越えて日本人の関心をひきつけるだけの新しい魅力が生まれていたためだろう。外国人の前に展開されたのは、1911(明治44)年の辛亥革命から10年以上を経過し、社会的にも風俗的にも清代末期とはさま変わりした中国だった。それは彼らの衣服についても同様なことがいえた。 明治期に日本の開港地で見かける中国人には、あるいは使役され、働くすがたが多く、上下二部式の服を着、男女とももんぺのように先のすぼまったズボンをはき、女性はたいていびっくりするほど小さな沓(くつ)をはいていた。正月や祝いの日などには、うつくしい光沢のある長衫(ちょうさん)を着た、堂々たる大人を眼にすることができたとしても、それは神戸の一部の地区に住む日本人だけだった。 関東大震災(1923)をすぎたころに、日本人の女優やダンサーなどのなかに、中国服――当時の言いかたでいえば支那服を、まねて着る人が現れだし、それがグラフ雑誌でも紹介される。それが1926(昭和元)年に入ると急カーブで話題になる。その話題になった支那服は、かつての清国人や、華僑の働く女性の着ていたものとはずいぶん違っていた。ある程度中国人に接していた日本人の眼から見ると、十何年か前の政治的変革とおなじくらいに、さま変わりしたスタイルだった。 新しい中国服は、清朝期の旗袍(チーパオ)のかたちをうけ継いではいた。旗袍は清人、つまり満州族が用いていた胡服のひとつだ。胡服とは中央アジアまでひろがっていた騎馬民族の衣服型を指す漢民族の言いかただ。漢民族の復権をひとつの目標とした新中国だったが、旗袍のデザインは受けいれて、これにモダンな美的価値観と、欧米風縫製技術を導入した。共産革命後の中国人が1920、1930年代の中国服を、中西服とよぶのはそのためだ。 新しい旗袍のスタイルを育てた温床は、魔都といわれた上海租界や、香港、マカオだったかもしれない。しかしそのめばえとして、革命後の社会をよかれあしかれリードした、革新的な女学生たちの役割はみのがせない。彼女たちは纏足を拒否し、髪を短く剪り、家から外に出た。おりしも欧米はボブ・カット、シースドレス、ショートスカートの、ギャルソンヌ・スタイルが全盛だった。彼女たちはその、世界の時流にも巧みに乗ったのだ。彼女たちは、摩登女子(モダンガール modern girl)とよばれた。そして彼女たちの大胆さに、おずおずとつき従ったのが、海のこちらの銀座のモダンガールだった、という図式になるだろうか。 (大丸 弘) |