近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 民族と民俗
No. 809
タイトル 東京の学校
解説

新政府になってまもない1871(明治4)年公布の戸籍法によって、東京も大区小区の区割りになったが、やがて1878(明治11)年の郡区町村編制法が施行され、東京の15区がうまれる。東京市の市制はその後の1889(明治22)年に施行された。

麹町、神田、日本橋、京橋、麻布、赤坂、芝、牛込、四谷、本郷、小石川、下谷、浅草、本所、深川

このほか周辺の8つの郡部をあわせたのが東京府だ。東京府の警察署は警視庁が管轄する。しかし警視庁は内務省の監督下にあったので、府知事の権威は弱く、東京市長はよく話題になったが、東京府知事を知っている人は少ないくらいだった。

1932(昭和7)年に、主として郊外、農村部だった地域の20区が新しく加わり、それまでの15区を旧市内とよぶようになる。明治11年以降、明治、大正、昭和初期のほぼ60年の東京は、江戸時代以来なじみの15の区名のもとに発展し、人々は生きてきたのだから、下谷とか浅草とかの名称への、東京人の愛着は深いはずだ。1943(昭和18)年に都政がしかれ、その後1947(昭和22)年に、都心部の狭すぎる区を統合して、中央区、台東区などという新しい区が誕生したときも、旧来の区名を愛する人々からはかなりの抵抗があった。

首府としての東京に中央官庁の多いことは当然だ。この点が官庁といえば府・市庁と府警本部ぐらいしかない大阪とは大きくちがっている。明治の中央官庁は現在ほど集中はしていなかったが、それでも霞ヶ関周辺に多かった。それにくらべて民間の建造物は、築地の三菱3号館とか、一石橋の三井本館とかが目立つくらいだった。大企業の本社機能が東京に集中し、日比谷公園をはさんで、官庁ビル群や国会議事堂にたちむかう丸の内のオフィスビル群がそそりたちはじめるのは、1920年代以後(昭和~)のことになる。

夏目漱石が[朝日新聞]に連載した『三四郎』(1908)は、朴訥な地方人の心象に映った明治末の東京が舞台になっている。三四郎は学生の身分だし、まじめな青年らしいから興行物や遊興の巷の話はでてこない。おもな背景となっているのは大学と、あとは病院だが、その病院も大学内の付属病院だ。

学校の多いのも東京の特色だ。官尊重の時代だったから大学とだけいえば帝国大学をさし、1902(明治35)年以降に早稲田大学、慶應大学等が仮認可されても、その学生をいうときはわざわざ私立大学生といった。そのころまでには専門学校令によるたくさんの高等専門学校が存在し、その学生たちは帝大生とおなじようなかっこうで区別はつきにくかったが、大学は帝大だけで、三四郎は相当なエリートだったことになる。時代がさかのぼるほど、学生さんの値打ちは高かった。漱石がまだ帝大文科(文科大学)の学生だった1891(明治24)年という年を例にすると、帝大創立以来の全卒業者が1,588人、うち文科は75人、1891年の新卒業生、つまりその年に誕生した学士さんは8人だけだった(松本徳太郎『明治宝鑑』1892)。学士さんなら嫁にやろか、といわれたのも当然か。ちなみに文学博士の学位を持つのは10人だった。

紫や海老茶袴の女学生がなにかと話題になり、ときには問題になったのも、結局は彼女たちがエリートであったための嫉妬も、その根柢にあったはずだ。1900年代、つまり明治の末ごろで、高等女学校の卒業者は同年齢の女性の1割程度だった。それより年のいった女性たちを含めれば、いわゆる「女学校上がり」の女性は本当にわずかだった。男女が机を並べたりいっしょに体操したりするのは小学校まで、の時代、異性に対する飢え、のようなあこがれの気持は、大人になりかかった年頃の、少年にも少女にもあったはずだ。とりわけ、ある地域、ある停留所の辺りはどこどこの女学生がたくさん通る、というと、そこは一種の舞台のようにさえなる。

この姫君たちが朝登校の行列は、旧青山練兵場に赴けば何人も見るに造作なく、参々伍々時間を違えず繰り込む光景は、東京中美しきもののひとつに数えて差し支えなからむ、……あれが某公爵の姫君よ、彼が何某侯爵の姫君様と分かる方法があったなら……眼の正月之に過ぎるはなかろう。
(池田政吉「東京十景―姫君達の行列」『欺されぬ東京案内』1922)

青山の旧陸軍練兵場跡に女子学習院の新築されたのは1918(大正7)年だった。学習院の場合はとりわけプレステージ(prestige)が高いといえるだろうが、虎ノ門のどことか、九段のどの辺りがどう、とかいうとり沙汰は、若者のあいだでは知れわたっていた。

しかしもちろん、若者が眼をつけるのはなにも女学生ばかりではない。

東京で女の通行のもっとも多いのは神田橋外だろうが、そのなりでどういう種類の女性だかがすぐわかる。袴をはいているのが高等女学校の生徒、電話交換手は……ちょっと小ぎれいである。しかし日本銀行の女員の服装のりっぱなことは非常なものである。印刷局の女工は朝早く出勤し、出入りのたびに裸体検査を受けるために、髪も解きやすく結び髪にしていたが、これはこの頃そうでなくてもよくなったらしい。
(→年表〈現況〉1900年1月 弥生山人「随感随筆」朝日新聞 1900/1/7: 7)

と、大新聞もつまらない観察を掲載している。

[朝日新聞]はまた、やはり明治の末に、東京で女性の多い地域というのを市勢調査にもとづいて分析している。

警察管轄区域についてみると、紀尾井署、高輪署、赤坂署、青山署、四谷署、大塚署、象潟(きさかた)署、日本堤署、向島署および洲崎署管内である。日本堤洲崎に女性の多いのは吉原と洲崎の娼妓、象潟は公園の白首、大塚は女子大学の影響、と見ることができる。その他の地区は紳士富豪町であり、東京の紳士富豪が女の買い占めをやりつつあることは今や覆うべからざる事実である。
(→年表〈現況〉1911年8月 「東京で女性の多い地域」朝日新聞 1911/8/14: 5;1911/8/21: 4)

大塚辺が、日本女子大学一校のために女性人口がそれほどふえているかどうかには疑問がある。また最後の「富豪による女の買い占め」とはなにをいうのだろうか。

この記事はつづけて、東京は市内より郡部の方が女性の数が多い。それは人口の差だ。ところが理髪業者と結髪業者(女性を客とする女髪結)の数をくらべると、郡部は理髪業者の方がやや多いのに、市内の理髪業者3,043人に対し、結髪業者は6,339人と2倍以上であると、当然のことながら都市部では、髪結に髪を任せる女性の数が圧倒的に多いことを指摘している。

ほぼおなじ時代、その女性の結う髪について、つぎのような地域差を言っている記事がある。

神田・四谷・牛込――束髪七分 島田三分
芝・京橋・日本橋――束髪三分 島田七分
下谷・浅草・本所・深川――束髪 島田 銀杏返し 各三分
本郷・小石川等には島田髷至って少なし
(→年表〈現況〉1906年2月 「束髪と島田髷」時事新報 1906/2/23: 11)

かなり長いあいだ、束髪は山の手のインテリや女学生の一部に局限されていた。それが日露戦役(1904、1905)のすこし前から、いわゆる廂髪のはじまりで、次第に勢力をひろげるようになっていた。銀杏返しは島田よりももっと下町風のものだ。

(大丸 弘)