近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 民族と民俗
No. 813
タイトル 横浜
解説

『半七捕物帳』にはよく横浜に関係する話が出てくる。文久元年(1861)のできごとだという「異人の首」には、「この頃では横浜見物も一つの流行りものになって、江戸から一夜泊まりで見物に出かける者もなかなか多かった」とある。作者が半七老人に思い出ばなしを聞いたという日清戦争のあと(1895~)でも、「ハマ」から来たという人を、道理でハイカラななりをしている、というような見かたがあった。

しかし横浜のもつ外国の香りの、つよい牽引力は、明治・大正を通じてうすれてゆく。もともと、横浜在住の外国人のなかで、圧倒的に多かったのは清国人だった。1883(明治16)年の神奈川県外事課の調査では、3,512人の在留外国人中、清国人が2,154人で61パーセントを超えた。1894、1895(明治27、明治28)年の日清戦争前後に清国人の多くは日本を去る。もちろん戦後にもどってきた人たちはあったが。維新前後の日本人は西洋の知識や技術の多くを、直接欧米人からだけではなく、清国人からも学んでいる。洋服仕立の技術もそのひとつだった。おなじ開港地の神戸では、後々まで中国人テーラーが残って、高い評価を受けつづけた。ほぼ同時期に東京府居留の外国人は、清国人も含めて783人にすぎなかった。

1899(明治32)年の不平等条約改正と、それにともなう内地雑居とは、在留外国人の居心地をいくぶんは悪くしているにちがいない。この機会に日本を去った外国人も少なくなかったろう。内地雑居以後は、旧居留地外でも外国人による営業活動が認められたが、その数は予想よりかなり少なかった。とりわけ清国人による料理・飲食店はわずかに5軒で、いわゆる南京町はまだなりたっていなかった。

不平等条約時代の居留地は治安も風儀も悪かった。1889(明治22)年の新聞には「近来横浜に無籍無頼の外国人夥しく殖え来たりて外船の入港する毎にこの種の外人搭じ居らざる事なしという」という記事がみえる(→年表〈現況〉1891年8月 「外国人の無宿者、横浜に跋扈す」郵便報知新聞 1891/8/13: 3)。記事によると、もともと彼らは香港・上海あたりの喰いつめ者が多く、本牧山の手あたりに徘徊して婦女をとらえて路上で公然接吻したり、泥酔してけしからぬ振る舞いをする云々とある。

こういう手合いの内には日本の醜業婦を外国に斡旋したり、銘酒屋で女性に裸踊りをさせ、その写真を撮るなどの行為をする者もいて、居留地外の花咲町で密行巡査に逮捕される、という事件も報道されているが、氷山の一角だろう。

不平等条約時代の居留地に出入りする日本人には、もちろん公用、商用の紳士もいたろうが、多いときには4千人に近かった外国人の、日常の用をたす人間の数は多かった。独身で来航した外国人の多くは日本人の妾を抱えた。ゆとりのある男が妾をもつことはあたり前と考えていた当時の日本人は、概して金離れのいい、西洋人や清国人の妾になることは、一時のいい商売ぐらいにしか考えていなかったらしい。こういう「商売」の女性たちをふくめて、商館や山手あたりの住居に住みこんだ日本人が学びとった、異国風文化の量は小さくはなかったはずだ。

居留地内にはもちろん、その外郭の弁天通、元町、馬車道あたりにも、在留の、また一時的な旅行者の用をたす店が数多く生まれた。横浜で発行されていた[金港新聞]や、ひろく読まれていた[新聞雑誌]には、これらの店のものめずらしい販売品目が広告されている。パリのプランタンも居留地に出店したと、[横浜毎日新聞]で報じられていた。こうした店のなかには、最初の外国人経営者が日本を去ったあとも、あとを任された日本人が、その信用を長いあいだ保ちつづけた例が多い。

異国文化の窓口としての役割を、その後も細々とになってきた横浜は、関東大震災によってその役割を終えた、と考えてよい。その最後の輝きが、1923(大正12)年のフランス宣伝艦隊の日本来訪だった。大震災を半年後にした3月、パリの流行界の粋を紹介するために艦内を粧った旗艦ジュール・ミシュレー号が横浜港に投錨、艦内を公開した。いちばん喜んだのは在留西洋婦人だったそうだが、大桟橋に横づけした巨艦を訪れた日本人は、宮殿のなかをでも案内されるようだったという(→年表〈事件〉1923年3月 「フランス流行界の粋を紹介する仏艦隊」都新聞 1923/3/12: 4)。

関東大震災後は、港を望む山下町あたりや、外国人墓地ののこる山手――ザ・ブラフ(the Bluff)と、大文字で書かれる丘陵地あたりに、淡いエキゾチシズムの手がかりがのこるだけの観光地と化した。横浜は結局マンモス化した東京にすべてを奪われた。1941(昭和16)年に大型船の受けいれも可能になった東京港の埠頭整備は、それを決定づけた。

その山下町にたつホテルニューグランドは、横浜の後ろむきのレゾンデートルを象徴している。外国人の宿泊を目的にグランドホテルが創設されたのは開化まもなくの時期だったが、大震災で壊滅、廃業した。ホテルニューグランドはその名を一部借用して1927(昭和2)年に創業した。新生のホテルニューグランドが名声を高めたのは、パリから招聘したシェフ、サリー・ワイルの功績だ。彼に育てられたシェフたちは、第二次大戦後、東京の大ホテルの厨房を支配することになる。

サリー・ワイルの時代、ホテルニューグランドや、近くのバンドホテルの、スイングジャズのあふれるダンスルームは、間近に迫っている暗い時代をよそに、東京から京浜国道を車でとばしてくる女性たちと、外国人たちとでいつもにぎわっていたという(→年表〈現況〉1937年12月 「お洒落な町々」【スタイル】1937/12月)。

(大丸 弘)