| テーマ | 民族と民俗 |
|---|---|
| No. | 801 |
| タイトル | 朝鮮人・朝鮮服 |
| 解説 | 古代中世の日本が中国から受けいれた文物のほとんどは、朝鮮半島経由だった。しかしそれにしては、日本人のもっている朝鮮や朝鮮人についてのイメージは稀薄だ。古代から近世まで、どれほどの日本の知識人が、朝鮮の文化に関心をもったろう。天正少年使節や長崎出島のオランダ人のことは、どんな歴史教科書にも出ているが、朝鮮通信使がとりあげられるようになったのは、ごく最近のことだ。いくぶんか知られていた朝鮮の文化といえば、李氏朝鮮の陶磁くらいのものだった。 日本の明治以降の一般大衆にとって、大陸に眼をむければ、底のしれない大きさをもった中国があった。またすこし北の方角に眼をやれば、さらに広大なロシアの大地がひろがっている。どちらにしても、日本人にとっては夢、あこがれれの対象であると同時に、大きな威圧感をもって迫ってくる存在だった。朝鮮半島はその場合、レンズの視野の範囲外というより、焦点を合わすことのない足もとのように、意識の外にあった。 韓国の併合は日露戦争直後の1905(明治38)年頃から具体化していって、1910(明治43)年8月29日、〈日韓併合に関する条約〉の公布によって実現する。日本の大衆にとっては、日露戦争戦捷後の陶酔の時期だったこともあり、どういうことかよくわからない、というのが本当のところだったろう。新聞を読むくらいの日本人には、日清日露の両戦役によって、日本が朝鮮から清国とロシアの勢力を追い払ってやったのであり、そうしなければ朝鮮は、どちらかの国の属国になってしまうよりしかたがなかった――弱い、かわいそうな朝鮮、といった理解があったようだ。「朝鮮人はかわいそう」という感情は日本人の中に根づよく残り、子どもの遊び唄にまでなっている。 じっさいのところ、併合後も、朝鮮は日本の何なのかということは、たいていの日本人にはよくわからなかった。しかし日本に統治されている国、ということはたしかだったから、そういう意味での気の毒さがあり、朝鮮の人とのつきあいには多少遠慮があった。もちろん無教育な人間のなかには、侮蔑的な態度をとる者もいただろう。朝鮮人は一般に身長が日本人よりもやや大きく、体力が優っていたから(帝国学士院『東亜民族要誌』1944)、朝鮮人が多かった肉体労働の現場などでは、だいじにされたろう。 改良服のアイディアのなかには、日本人はもうきものをやめて、いっそ朝鮮服にしてしまおう、という提案もあった。和服の大きな欠点が、前のはだけやすさだったから、たっぷりしたヴォリュームをもつチマを推奨する、という理由もあった。 しかしその、チマをはいた朝鮮女性の座りかたが、日本人にはなじめなかった。脚をひらいて座ったりうずくまったりするすがたを、日本人は不作法とみるのだ。せまい対馬海峡ひとつをへだてただけながら、朝鮮と日本の文化のへだたりは案外に大きい。日常のつきあいのなかで両者をへだてるもっとも大きな原因は、食文化のちがいだったろう。朝鮮人宅の隣に住んだりすると、ニンニク料理の匂いに辟易する日本人が多かったらしい。朝鮮人は日本人よりずっと肉食を多くし、値段が安いから、ということもあって、豚などの内蔵をよく食べる。きれいに切りそろえた、但馬牛のロースばかりがお肉だと考えている奥さん方には、ブツ切りされた内臓を食べるような人たちは、やや敬遠気味になる。 朝鮮人が男女とも白色を貴ぶことは、早くから知られていた。純白のチマ、チョゴリを家族に着せるために、朝鮮女性は非常に多くの時間を洗濯のために奪われる、といった記述は、どの民族誌からも読みとれる。それにくらべて水にはずっと恵まれていながら、日本人は風呂に入ることばかりに執着して、衣類の洗濯はめったにしない、だから日本人は臭い、という指摘もある。日本統治時代、洗濯に使う時間をもう少し減らして、もっと自分の時間をもつように、という総督府令まであった。 明治初年には、留学生を含めて日本在留の韓国人がかなりいた。1883(明治16)年には12名の韓国人が東京の陸軍士官学校に入学している。彼らは最初、洋服の制服を着ることも、「栄螺(さざえ)あたま」といわれた朝鮮風丁髷を切ることも拒んだ。しかし卒業までには、洋服と散髪に同化した。 またそのころ日本から帰国した韓人は、白衣でなく、好んで日本風の黒っぽい衣服(資料では黒衣となっている)を着ているため、黒い衣服は日本派の色として、守旧党はきらっている。とりわけ黒の洋服などにいたっては、夷狄(いてき)の服として憎しみの対象になっている、と報じられている(→年表〈現況〉1885年1月 「黒衣を憎む」東京日日新聞 1885/1/10: 午後10)。これを考えると、日本が朝鮮経由で中国文化を摂取したように、日本経由で欧米の文物に馴染んだ時期が、朝鮮史にもあったことになる。 (大丸 弘) |