近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 民族と民俗
No. 802
タイトル 中国・中国人観
解説

日本人の心の底には、漢字文化の宗主国としての中国を畏れ、敬う念が、時代が明治と変わっても根づよく存在していたはずだ。教養人の口をついて出るのは漢詩文の古典や、中国の故事だったし、すこし堅い書物の序文や、故人の顕彰などのため石に彫られる碑文には、なんの理由でか、だれでもすらすら読み下せるわけではない、無点の漢文が用いられていることが多かった。

その一方で現実の清国は、阿片戦争(1840~1842)以後、欧米列国の餌のような状態をさらしていた。その状況は幕末の日本人にも伝わっていて、攘夷のひとつの根拠ともなっていたから、危機感とともに、敬愛してきた老大国に対しては、歯がゆさも感じていたにちがいない。

開国後のわが国には、欧米人以上に多くの数の清国人が訪れた。これまでは孔孟の国であり、関羽や張飛の国であり、また唐人飴屋ぐらいでしか理解していなかった隣国の人々と、じっさいに接する機会が生じたのだった。その結果は日本人がそれまで抱いていた中国人観を、いくぶんかイメージダウンさせる方向だったかもしれない。

1891(明治24)年の[郵便報知新聞]は、居留支那人の生活というタイトルのレポートでつぎのように言っている。

其の筋の調査によれば(居留支那人は)一千有余名に上り爾来日に月に増加するも減少することなし(……)我日本に来る支那人は大概香港上海等に於ける流浪もの多く 其の他マニラ、米州、豪州等の追い出され者にて世界各国支那人出稼ぎ中の下等人物なり 長崎神戸大阪に居留する者は又下等中の最下等にして 横浜は幾分か上等仲間と知らるべし 併し其の生活の賤悪にして例のケチ一点張りを以て押し通すに至っては同一なり 彼等の大半は何を為すか 居留英米独仏人の従僕を務め 又偽金銀の細工物飴玉の珊瑚珠売なり 其の上等の部分は洋服裁縫、両替商、薬店なれども其の数甚だ少なし
(→年表〈現況〉1891年7月 「居留支那人の生活」郵便報知新聞 1891/7/23: 3)

じっさいには欧米人のなかにも、素性の怪しい流れ者が少なくなかったのだが、それでも彼らの多くはお雇い外国人として、またミッションの教師として、あるいはヘボンのような医師として、日本の近代化への貢献はだれの眼にもあきらかだった。それに対して清国人は、すべてが日本へ稼ぎに来ているのであり、その多くはこの記事にもあるように、欧米人の召使いになっているのだ。洋服裁縫など、西洋文明の手ほどきをしてくれた分野があるにしても、せいぜいが、日本人と対等のつきあい相手なのだった。

中国古典に通暁した当時の文化人たち――若き日の幸田露伴や大槻如電のような人たちが、眼前の清国と清国人とを見て、どんな中国観を抱いていたかはわからない。しかしおそらく、いまや崩れかかった清国と、漢、唐、宋、明の古典的伝統とを、はっきりと区別していたことだろう。

清国人のイメージダウンの底が、日清戦争(1894、1895)だったことはいうまでもない。清国人を嘲るたわいない戯れ歌や、子どもの遊び歌がはやったのは、その時代の日本人の教育レベルからいえばやむをえまい。とりわけ、清国人男性がもっていた頭上の弁髪が、日本人には滑稽に感じられたらしい。清国人は庶民のあいだでは「南京さん」とよばれた。

戦争によって帰国した清国人は多かったが、しかし戦後は戦前にもまして多くの清国人が来日した。1897(明治30)年から翌年にかけての調査では、在住中国人の総数は4,533人。欧米人は全体で4,665人。外国人の半数近くは清国人、ということになる。清国人のほぼ半分は横浜に住んでいた(→年表〈現況〉1897年12月 「横浜雑話(16) 日本在住の外国人」国民新聞 1899/5/14: 5)。

中国人の多くは、なすべきことが終われば帰国する欧米人とちがって、華僑として日本に土着した。横浜、神戸、長崎には、自然と彼らの居住区――南京町が形成されてゆく。南京町は上海などにあった租界とはちがい、日本人を排除するものではなく、住んでいる中国人になんの特権もなかったが、とくに横浜では、日本人には近づきにくい街の雰囲気をもっていた。横浜の日本人は、南京町の迷路のように入り組んだ路地の奥には、阿片窟があるものと信じていた。じっさい、阿片吸引者はかなりいたといわれている。また1900年代(ほぼ明治30年代)にはほとんどの子どもが種痘を受けていた日本とちがい、在留清国人のなかには、見た目のおそろしいあばたづらのひとがいた。こういったことも、横浜の日本人と中国人との間をいくぶんへだてる理由になっていた。

1911(明治44)年の中国における辛亥革命は、日本人の中国観に多少の変化を生むきっかけになっている。東京の山の手辺の下宿に多くいた中国人留学生には、学費切れで帰国する人が多くなった。その代わりに志士といわれるような人物、孫文のような人が来日して、日本の政治家や文化人と交流をもった。

それとはまったくちがうレベルのはなしだが、あの不自由な纏足で、家のなかにこもりきりだった、なよなよした中国女性が、とくに若い女学生たちの多くが、思いきって髪を短く切り、勇敢に街のなかに、そして社会に飛び出した。彼女たちのありかたは、日露戦争戦捷後の好景気にものって、ますます身を飾ることに贅沢になっていた日本女性に、遠いシグナルの役目を果たしたかもしれない。

(大丸 弘)