近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 537
タイトル 弔い
解説

人が死んで近親の者たちが死骸を葬る、その実際的な手順や儀礼はその土地によってのだいたいのきまりがある。そのきまりごとに逆らったり疑問をもったりするわけではないが、細かいことで、どうしたらよいのか、どっちをえらんだらよいのか、判断できないことが、葬式のような日常的でない出来事には出てくる。とりわけ大都会での生活者にはそういうことが多い。

死骸を葬る作法のようなものの、その土地土地でのやり方は、非常に古い習俗をもっているはずだ。あとから入ってきた仏教などは、ただその習俗に融和しただけだろう。江戸というところは諸国からのよせ集めの人間の町だったから、江戸独自のものなどもともとはなかった。要するに各地の習俗のよせ集めだ。それが300年かけてようよう江戸風のかっこうがついたときに、東京と名前が変わって日本中の人間が入りこんできて、またもとに戻った。しかし大都市というものはどこであれ、そんなものだ。

明治時代の作法書等を見ると、葬礼の作法はほぼ、幕末の江戸の町人社会にできあがっていた標準に添って説明されていることがわかる。そのうえである著者は、それとは部分的なちがいのある身分ある武家の風や、地方のしきたりを紹介し、またべつのある著者は、一部分に西洋風のやりかたをつけ加える、というパターンになっている。

葬礼の上下(かみしも)姿――今は帯刀の禁令と供に廃れて、僅かに田舎の葬式にのみ用ゆる事となりたれど、それすら次第に廃れ行くなり
(山下胤次郎「第12章 衣服」『和洋男女礼式』1901)
今日では一般に特製の喪服を着けることはありませんが、相当の身分ある人が、喪主として葬送に列するには、薄黒色の麻を以て製したる喪服を着けます。(……)又西洋の例に倣いて、帽子又は洋服の左腕に、黒布を巻くこともあります。
(『衣服と流行』1895)
一体喪服というものは黒色を以て本義とするのですが、武家にては昔から白色を用いましたものですから、今に猶(なお)其の遺風を守って、白色を用いるものもありますけれども、朝廷では専ら黒色をお用いになりますから、それに従って宜しいです。
(「問答くさぐさ」国民新聞 1901/2/16: 3)
喪服の着方――衣裳は宮中をはじめ神葬式では黒衣を用いますが、仏式には女は白き重ね衣裳に白の帯を結びます。これはいつの世からいかなる風俗から起こったかは知りません。又地方により白地に墨絵の被衣(かつぎ)を被った風俗もあります。
(古田むめ『衣裳と着附』1925)

しきたりに違うことをすれはひとの物笑いになる、ということは嫁取りでもお産でもおなじことだが、葬礼ではそこに怖さが加わる。まちがったことをすれば死んだ者が行くところへ行けないとか、家にまた死人が出るとか。

ある礼法書では、たとえば香奠の表書きのきまりとして、三回忌までは金額を上に書いてその下に香奠と書くが、そのあとは上に香奠と記して、その下に金額を書くとか、会葬者の記名帳はふつうの帳面のようにはじめの頁から記さず、最後の頁から記す、といった作法がのべられている。最後の頁から書きはじめるというのは、おそらく例の逆さ屏風に類した発想だろう。

直接礼法やお宗旨とは関係ない実用書である『祝祭送迎婚礼葬儀準備案内』(1905)といういわば実用書に、たとえば「出棺を避くべき日」として、つぎのような記述がある。

友引、丑、寅に当たる日は決して葬式を行う訳に行かぬ、それはどういう理由かと申せば、友引とは文字の示す如く友を引くと云うて、(……)縁起悪いものと致して居り、丑と寅の日も同様跡を呼ぶという意味で、何処までも此の日を避けて、繰り上げるか繰り延ばすか、何れにか当たらぬ日を葬式の日と定める。若し其の家の都合で丑寅の日に出棺せねばならぬ事情がありとすれば、(……)行者などを頼んで丑寅除けの祈祷を行う、さすれば葬式が無事に出来るとの俗諺になって居る。
(『祝祭送迎婚礼葬儀準備案内』1905)

友引など九星術は、現代の暦でも印刷されているものがある。丑寅については今日ではまったく忘れられた。1905(明治38)年という時点ではしかし、それを気にする老人がいたのだろう。気にするひとがいるのだったら、ひとのいやがることをするには及ぶまいとか、損得にかかわらないことだったら、うるさい人に逆らうのは避けようという思いやりは、根拠のわからない俗習が死に絶えないひとつの理由だろう。

もちろん平出鏗二郎のような知識人は『東京風俗志』(1899-1902)のなかで、この種の御幣担ぎ的風習を、紹介はしながらも、嗤うべし、という態度だ。仏教者もまた、この種の根拠のない俗信には眉をひそめることがある。たとえば正統の浄土宗の立場から、死者を送る門火について、これはもともと死者の陰気を散ずるために爆竹を焚くというシナの旧慣の変化したもので、仏典にはないとし、「僧は務めて俗礼を避くべし、但しもと俗礼にして因習の久しきにより或いは遂に仏式の如くなれるものあれば、能くこれを弁ずべし」(吉永融我『浄土宗便覧』1893)と注意している。

仏教はその教義からすれば、葬式や墓に深く関わるいわれはとくにない。葬式や墓、追悼の法事などに熱心なのは、祖先崇拝というべつの信仰だ。近代日本の国家主義がそれを大いに鼓吹したことはいまでは常識になっている。維新後の廃仏毀釈で死にかけていたお寺さんが、巧くそれに便乗して息を吹き返したということだ。

(大丸 弘)