近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 536
タイトル 正月
解説

日本のお正月は、歳の暮れのあわただしさとの対比で考えなければ理解しにくい。だから正月行事というより、年末年始行事というべきだろう。

江戸時代の暮れの行事は、まず師走13日の煤払いからはじまった。夏の井戸替え、暮れの煤払い、こんな気持ちのいいものはないと、岡本綺堂は『半七捕物帳』のなかで半七に言わせている。家内を浄めて歳神を迎えるという意味もあり、それと関係する風習もさまざまあったが明治になってから多くは廃れている。明治以降は煤を払うより畳をあげて外に持ち出し、竹の棒などで叩く家庭が多く、周囲に迷惑というので、大掃除の日を一定の日にきめる条例をつくった地方がかなりある。近代の大掃除は、大晦日に近い28日ということが多かった。

商店は景品つきの売出しで景気を煽り、初春のお飾り類をならべた歳の市や、羽子板市、大掃除やら餅搗きと、街はせわしないなかでも、溜まった支払いをどう工面するかの算段と、帳面を腰にさげてお得意さんの家を一軒一軒まわる掛取りの攻防は、落語などでもおなじみだ。明治時代にはご用聞きと掛売りの風習がまだかなり残っていた。上方では決算を年6回くらいに分けていたが、江戸では盆と大晦日の2回だけだったし、大晦日はとくにだいじな決算日だったので、支払いの額は大きかった。

その苦労も一夜明ければ、きのうの債鬼も笑顔で年始の挨拶に来るという新玉の初春になり、商店もしばらくは大戸を閉め、町には年始のひとの往き来がはじまる。

岡本綺堂は、明治の中頃までは、年賀郵便などで義理をすます人などなかったから、新年の街は着飾った回礼者でいまよりずっと賑わっていたと、つぎのように書いている。

新年の東京を見わたして、著しく寂しいように感じられるのは、回礼者の減少である。もちろん今でも多少の回礼者を見ないことはないが、それは平日よりも幾分か人通りが多いぐらいの程度で、明治時代の十分の一、ないし二十分の一にも過ぎない。
(岡本綺堂「年賀郵便」『思い出草』1937)

東京に住むほどの者は、一軒で多ければ4人、5人の者が、連れだって、あるいは手分けして回礼に出る。

往来の混雑は想像されるであろう。平生は人通りの少ない屋敷町のようなところでも、春の初めには回礼者が、袖を連ねてぞろぞろと通る。それが一種の奇観でもあり、また春らしい景色でもあった。
(同上)

1880年代、90年代(ほぼ明治20、30年代)の新聞の、正月3日、4日の紙面には、恒例として、日本各地の新年風景のレポートが掲載されている。首都東京ではとくに丸の内麹町辺の、皇居参賀者の往き来が中心になる。

皇族大臣参議勅任奏任文武の諸有司、麝香間伺候(じゃこうのましこう)華族朝拝の盛儀を見るに(……)大礼服の金繍と胸間の勲章と相映じて燦々たり、殊に本年は勅任官以上及び麝香間伺候華族の、夫人をも参賀を仰せ出されしより、何れも垂鬢緋袴の盛装に妍(けん)を競い美を争い、其の良人と同車にて、陸続赤坂皇居及び青山御所へ参賀ありしを以て、此の新儀を拝せんと、赤坂近傍は見物人の山さえ笑う昇平の気象綽々(しゃくしゃく)たる(……)。
(→年表〈現況〉1881年1月 「元旦の東京市中」郵便報知新聞 1881/1/4: 2)
文武官とも改正の新服を着し、夫人方の九分通りは皆洋服を着し、下げ髪にて緋の袴を着用せし向きは僅か数名にとどまれり、殊に今年は武官方の乗馬の太く逞しきと夫人方の洋服の綺羅びやかなりしは頗る見事にして、之を見物せん為群集したる老若男女の実に夥しく、サシも広き皇居正門の近傍も殆ど立錐の余地なき程なりし。
(→年表〈現況〉1887年1月 「新年の景況」郵便報知 1887/1/2: 6)

かなりの貧乏人でも、お正月ばかりは仕立て下ろしを着ようとする。親は子どもにだけでも着せようとする。それをねらって呉服屋は11月あたりから、来年の春向きの新柄などを宣伝する。春着、というと、新春と、季節の春とのどちらをも意味するので、まぎらわしいが。

三井、白木屋などの大呉服店が、お得意むけの宣伝パンフレットを刊行しはじめるのは、1890年代末(明治30年代初め)だ。そんなものに令嬢向き、若奥様向きなどと写真入りで紹介された衣裳は、もちろん一にぎりの富裕層相手のお見立てだ。明治中期の1890年代頃(ほぼ明治20年代)であると、すこし暮らし向きのいい家の女性は、お正月といえば三枚襲にきまっていた(→年表〈現況〉1900年12月 「迎新の服装」【風俗画報】1900/12/25)。また、ふだんはもう曳かなくなったきものの裾を、お正月ばかりは古風に曳く家庭も多かった。

とりわけ春着に念を入れるのは芸者たちだった。暮れの20日前後になると、新聞には花街ごとに、くわしい「春着の噂」が連載される。その見栄のためには、ずいぶん苦しい算段をしいられる芸者もあった。花街にとっては三が日、また七草あたりまではかきいれだ。三が日がお約束で一杯でない妓は恥だった。売れっ子の芸者はひとつの座敷に30分も腰をすえていられず、駆けつけるお座敷で踊ったり、酒をこぼされたり、袖を引っ張られたり、裾を踏まれたりで、芸者のきものは傷み、汚れや汗染みが早かった。

『東京風俗志』(1899~1902)では、年末年始の行事のうち、すでに廃れたもの、衰えているものとして、12月8日の御事始め、歳の市の翌日の蓑売り、家の前で搗く賃餅、いわゆる引摺り餅や、年賀の回礼、三味線を習う下町の少女の弾きぞめや、枕の下に入れて寝る宝船、などをあげている。その一方で、維新以後忘れられていながら、近年になって復興した、愛宕神社毘沙門天のお使いのようなものもあると。

しかし江戸以来の伝統行事が急激に衰えたのは、『東京風俗志』以後のことだったろう。三河萬歳、鳥追い、獅子舞、太神楽、厄払いなど、近代的な商店街の構えが、こうした乞食まがいの門付け芸にそぐわなくなったのだろうか。路は広くなったものの、空中に張り巡らされた電線は、凧揚げを街中から消し去った。1910年代以後(大正後半)になると、広い路には自動車が目立ちはじめて、追羽根の少女たちを路地裏に追いやるようになる。それでも家庭では、振袖の娘たちが青畳に白い手をついて勝負を争う、百人一首やカルタ遊びは、彼女たちがまだ畳生活に十分なじんでいた昭和戦前期までは健在だった。

(大丸 弘)