近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 着る人とTPO
No. 535
タイトル 通過儀礼
解説

通過儀礼というのは堅苦しいことばだが、人の一生のくぎりくぎりにおこなう祝いごとをいう。1月15日が成人の日、11月15日が七五三の日と言ったりしても、それは7月7日が七夕、10月10日を体育の日というのとは意味がちがう。1月15日はその年20歳の成人になった人を祝うことに行政がきめた日、11月15日も3歳、5歳、7歳になった子どものお祝いを、気候もいいころだからその時期にする、としただけで、いずれも祝われるのは日ではなく人、それが通過儀礼で、日付そのものに記念的な意味があるわけではない。

人の一生の祝いごとの多くは、わが国では神事になっている。仏事であるのは葬式とそのあとの法事だけで、祝いごとではむしろお線香臭さを避けている。これはわが国では仏教が、葬式や死とかたく結びついてしまったためだろう。近親者の死からあまり日時が経っていないときは、鳥居をくぐるのを遠慮するものだった。

その神事はすべて産土(うぶすな)社か、近くの有名神社で、あるいはその神職の手で執りおこなう。しかしその神社というのが一体なんなのかについて、天神さんのようなよくわかっているものは少なく、庶民はほとんどなんにも知ってはいなかった。神社の祭神が何々の尊(みこと)、などということが拝殿のそばの立て札などに書いてあっても、それがどんな人か、神様かは、ほとんどだれも関心がない。

もともと神道には、ごく素朴なアニミズム以上の、宗教としての教義らしいものがない。

それは戦前の教育者などもよく知っていて、とくに産土社の参拝は宗教ではない、自分たちの祖先と国土を敬い、重んじるための行為、と主張する人は多かった。

余は曾てから我国在来の神社を西洋各国に於ける偉人の記念碑と同様に見做し、我国民たるものは信仰の何たるかに係わらず、祖先の祈念碑を十分に尊敬し、是を大切に保存しなければならぬ事を熱心に主張して居るものである。
(高島平三郎『家庭及家庭教育』1912)

その点からいえば、楠木正成を祀った湊川神社、それから乃木神社、明治神宮などはわかりやすい。乃木さんは短期間だが学習院の院長をしていたから、学習院大学を受験する人には便宜をはかってくれるかもしれない。

お社の祭神がなんであれ、子どもの成長の節目ごとの神詣では、乳幼児死亡率の高かった時代、親にとってはうれしいことだったろう。興味あることに、神社への参拝をともなう通過儀礼は子どものときだけで、成人してからの誕生祝いなどは神様と関係なくなる。それに、ふた親の死んだあとは誕生祝いはしないという風習もあったようだ。

最初の儀礼はお宮参りだった。生後ほぼ1カ月後の赤ちゃんに宮詣着というものを着せて、何人かの付添人に伴われてお宮に詣でる。明治時代までは、家によっては出入りの鳶の頭なども真新しい半天姿で供をし、赤ちゃんの着ているのとは別に、もうひと重ねの新調の産着を肩にかけ、千歳飴などの配りものを提げさせる。奈良女子高等師範学校裁縫研究会が戦前に刊行し、戦後まで広く使われていた裁縫書には、特殊物篇の第6章につぎのような説明がある。

男児は生後三十二日目、女児は三十三日目に宮詣と云って、乳母又は親戚の婦人に抱かれて将来を祝福される為に、産土神に参詣する習わしがあります。此の際抱かれた上から被せる晴着を宮詣り着と云います。普通は一つ身の重ねを着せますが、後々の為を思って四つ身にする事もあります。
(奈良女子高等師範学校裁縫研究会『裁縫精義 特殊物編 第六章 宮詣り着』1949)

文中にもあるように、お宮参りに抱いてゆくのはお姑さんとか産婦以外の人がふつう。宮詣着には1メートルくらいの紐が二本ついていて、赤ちゃんを抱く人はこれを結んで首に懸けていた。

1902(明治35)年12月14日の[読売新聞]に、「宮参りの弊害」という文章を書いた医師がある。それは生後わずか1カ月ぐらいの乳児を冷たい外の風にさらす危険を言っている。また産婦もまだ抵抗力がとぼしいために、気管支カタル、肋膜炎、肺炎などをおこすことがままあると。概してこの時代、現代にくらべて産婦も新生児も弱かった、といえるようだ。

子どもの成長を祝う神詣では、男女児の3歳、男児の5歳、女児の7歳とつづく。七五三の社前風景は、戦前の新聞では毎年の取材対象だった。しかしに親たちにとって、もっと大きな節目であり、よろこびだったのは、小学校への入学だったろう。それが桜の開花の時期と重なっていることは、将来も日本で、9月新学期に変えられないひとつの理由になるかもしれない。

七五三が毎年の新聞種になったのは、その日の子どもの晴着が、流行の現在と将来を見せてくれる、と考えられたためだ。デパートの売場係が観察にもきた。またひとつには、日露戦争のあとぐらいから、とくに男の子に、海軍大将のかっこうをさせるといった、ファンシードレス(fancy dress)がよく見られていい写真ネタになったためだ。その日一日だけしか着られないにちがいないが、5歳の子どもは改良服とおなじで、なにも気にしないから、親にとっては、少々金のかかる遊びだった。

子どもの成長を祝う行事の盛んなのに対して、子どもが大人になったことを祝う家の行事は、明治以後廃れた。男の子の元服、女の子の裳着(もぎ)はいずれも成人の式で、江戸時代、武家の男子は若衆髷の前髪を剃り落として月代(さかやき)になって、これで家督を継ぐ資格ができた。しかしだれもが散髪の文明開化の時代、前髪も月代もない。女の子にはじめて大人の裳を穿かせる裳着、あるいは着裳(ちゃくも)は、これで結婚ができるというしるしで、鬢削ぎ、髪上げとともに、堂上家では江戸時代もつづけられていたようだが、一般にはほぼ忘れられていた。一部の地方では少女にはじめて幅の広い帯を締めさせる、帯祝いというものがあった。女の子には初潮を赤のご飯で祝う風習もあるので、このふたつをいっしょにする場合もあったようだ。

いずれにせよ通過儀礼は年中行事同様、地方地方での特色がつよく、古いかたちが残る残らないも、その地域や、また家によってのこだわりのちがいが大きい。

第二次大戦の前は、61歳の本卦還り以上の賀寿を祝う人も、祝える人も少なかった。

80の賀以上はほんとうに稀で、多くは高い地位にある人の、組織をバックにした宴だったようだ。この時代の人にはむしろ、祝いごとではないが、男の25、42、61歳、女の19、33、37歳の厄年の、厄払いの方を気にする人の方が多かったかもしれない。

(大丸 弘)