近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 452
タイトル かまわない人
解説

身なりに無頓着、といわれるひとがいる。あまり気をつかわないひと、というのであれば、程度の差こそあれわれわれの身近にいくらもいるだろう。さすがに女性にはそうめったにはいないが。

着るものに気をつかう必要のないのは、おおくの場合、そばでだれかが代わりに気をつかっていてくれているおかげだ。もちろん大抵は奥さんだし、結婚するまではお母さん。娘は中学に進むころにはけっこううるさいようだが、これはたまたま目についたことを言うだけで、妻のように下着から靴下まできちんとそろえてくれるわけではない。

よい奥さんをもった幸せな旦那のなかには、おかげで着るもの音痴になってしまう男がある。こと身なりに関しては妻の案山子(かかし)といってよい。食事についても似たことはあるだろうが、これは外食の経験というものがだれにもあるから、お袋の味や妻の手料理だけが味覚の守備範囲、というひとはまずありえない。

妻の心がけているのぞましい夫の身なりには、ある定型があるにちがいない。夫の年齢やタイプのほかに、職業や地位、要するに社会的ステータスについての配慮が、ときには本人以上に行きとどく。幸いなことにわが国ばかりでなく先進諸国では、19世紀の末以降、男性の10人中9人までは外出には背広のスーツになっている。とりわけわが国では若い人以外は黒に近い、濃いねずみ色が一般的で、選択の余地はせまい。それが100年以上変わっていないということは驚くべきことかもしれないし、べつに変わる理由はなかったともいえる。1930年代のアメリカンスタイル、1950年代のカルダン風、ズボンの太さやラペルの形、裾の折り返しの流行といったものは、まったく気にする必要はない。既製服を買っても注文服でも着る人の好き嫌いに関係なく、商品はちゃんと流行に沿っているからだ。いちばん売れている既製服で、きまりきった恰好をすることで、アレコレ迷うこともなく、安くついて、しかもけっこうファッショナブルなものを着ることができる。男性の、とりわけ背広社会でのこうした現象は、すでに1930年代後半(昭和10年代前半)にははじまっていた。

視野を背広スーツ以外にひろげて、近代の男性の身装を考えるとき、ひとつの際だった傾向のあることに気づく。明治以降のわが国のような複雑社会では、職業や身分が分化し、男性の生き方はその身分や職業に特化するようになった。その結果、ひとはその人の職業や職種、ときには経歴や地位に矛盾しないような、そのひとなりの価値観をもつようになり、それは日常の行動にも趣味にもおよぶ。服の選び方や髪型の好みも、彼の体型や年齢のほかに、それぞれの価値観――ものさしに添っていて、そのものさしへのこだわりが、隣の旦那にはもちろん、ときには女房にさえわかりにくいことがある。結果として近現代のとりわけ男性のなかには、顔立ちがどうとか、着るものが垢抜けているなどという、舞台の二枚目のようないい男の基準には、関心が薄れてしまっているひとがある。それは一見かまわないひとでありながら、ひとにはわからない、あるいは言いたくない――つよいこだわりを、自分自身のイメージにもっているかもしれないのだ。

大都会の都心にあるような理髪店は、フリの客のヘアスタイルに非常に神経をつかうという。美容院とちがい、理髪店の中年以上の客は、流行といったものにはなんの関心もない。うるさくのびてなければいい、という以上の注文をもっていない人も多い。それでいてじつは、自分のスタイルについて本人にさえはっきり自覚しないような、つよいこだわりをもっていることがある。髪の刈り様はしばしば相貌を変えてしまう。理髪店主のちょっとした手加減に、本人は気づかずに帰っても、まず妻が笑いだす。しかし男性の職業や立場によってはそれだけではすまないことがある。髪が伸びきるまで、彼は同僚や知人の無遠慮な視線に耐えなければならない。それは単純に、その髪型がその人らしくない、ということのためだ。

明治時代の男たちのもっていたそういうこだわりの代表的なものが、武人としての覚悟だろう。第二次大戦前の人気に比べて、戦後の忘れられ方がひどいのは、乃木希典大将だ。乃木大将は明治天皇の葬儀の当日、妻とともに自殺した。殉死、といわれることもある。この殉死についてはその当時も批判があったが、そんなことよりも、乃木さんといえば我慢強いひととして、戦前の男の子にはなにかにつけてお手本のような存在だった。まだ幼いとき、寒いと言ったため、母親に井戸端に連れて行かれ、冷水を何度も浴びせられたとか、出されたおかずを嫌いと言ったため、そのあと来る日も来る日もそのおかずだった、という逸話などをきかされた。乃木大将は一年中、軍服とその下のシャツだけだったという。旅行には着替えのシャツを一枚持って行くだけだった。大将と地方でおなじ宿屋に泊まった人の話だと、大将は浴室まで手拭いを一本下げて軍服のままで来たそうだ。彼が学習院の院長をしていたとき。通勤途中で落馬して怪我をし、数日間赤坂の病院に入院した。回復期になったので、病院が家からふだんに着るきものを取りよせようとしたところ、大将は一枚も和服をもっていなかった。大将にとっては、軍服が動物の毛皮のようなものだったらしい。大将は日露戦争のとき無遠慮な外国人武官に、彼の眼は偏執狂の眼だと言われたと、芥川龍之介が書いているから、特別の硬骨漢だったとはおもうが、しかしこれと似たことが、陸軍軍医総監だったあの文化人の森鴎外にもあるのだからおどろく。武人は戦場で、ものの欠乏に耐えなければならないからという日常の心がけと、男は着ることなどに心を費やすべきでないという信念が、極端とも思える節制と、着ることへの無関心さをうむ。

戦前は政治家や有爵者のなかにさえ、この種のかまわない人がかなりいたものだ。いつもカーキ色の詰襟服しか着なかったため、「北雷(きたなり=着たなり)」とあだ名され、のちそれをみずから号とした東京市長、会計検査院長、法学博士で子爵の田尻稲次郎(1850~1918)、身なりにはまったく無関心で、雨が降っても傘もささなかった国文学の泰斗芳賀矢一博士等々、例には事欠かない。

身なりへの無関心、あるいは蔑視のような思いの、いわばもっと低級なものがいわゆる蛮カラだ。蛮カラということばはハイカラの対立語として生まれたので、20世紀に入ってからの言いかただが、明治・大正期の学生の、ひとつのタイプとして広くつかわれた。[朝日新聞]は1911(明治44)年10月に「蛮カラ列伝」という続きものを掲載した。30回にわたる記事のなかで取りあげられた面々のなかには、田尻稲次郎、芳賀矢一のほか、島田三郎、大隈重信、志賀重昂、後藤新平、頭山満等々に加えて、おどろくのは、下田歌子、嘉悦孝子のようなその時代の才女を含んでいる。

身なりにかまわない人のなかにはまた、生活者としての正常な感覚のなにかが欠落しているのではないかと、疑われるような人も混じってる。美術史家で画商だった福島繁次郎は、椅子の上になにが置いてあろうが頓着なく、座ろうと思えばどこへでも座ってしまう。袋に入っていた玉子10個ばかりが全部つぶされてしまったことがあると、妻の随筆家福島慶子が嘆いている。以下の引用は、作家大倉桃郎の息子による、父親の思い出だ。

なりふりに無頓着な事では私の知る範囲では、父の右に出る者は居ないであろう。(……)ほって置いたらどんな格好で出かけてしまうか判ったものではない。Yシャツのボタンは段違いにとめているし、ネクタイで左右どちらかのカラーを下に締め込んでしまっている。ズボンの前ボタンはとまっていないといった具合なのである。(……)浴衣をばあっと脱いで今度着る時には裏返しで尻当てを丸出しで平気で居るし、その次にはまた表になるといった調子で、全く始末に負えなかった。(……)下着に至っては裏返しに着ているのなどは普通で、(……)着替えのたたんであるのを上と下とを取り違えて、猿股に両手を入れ、「オイ、此のシャツには首が無いよ」と脱衣場でどなっていたという、落語にでもありそうな事もあった。
(『明治文学全集明治家庭小説集』月報 筑摩書房 1969)
(大丸 弘)