近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 451
タイトル 貧しい人々
解説

その日の食べものにもこと欠く人々に、ふたつの種類がある。それはとにかく働けばなにがしかの収入が得られる人と、働くことのできない人とだ。働けば収入のある人のうちには、怠け者で、自分では働かないような人もあるが。

大都会でこういった人たちが集まるのは、生活費の安い、環境の劣悪な一定の地域――スラムになる。山の急斜面や、その麓の日照の悪い地帯、低湿地など、もともと悪い自然的条件をもつところもあり、またべつの理由から地価がひくく、――それで住居費が安く、貧困者がそこに集まって、おなじような暮らしの人間同士の気やすさと便宜から、スラムを形成することもある。教育もあまり受けていない肉体労働者の荒っぽい気風や、犯罪が多いために、環境は悪くなり、外部の人間からは怖れられ、疎外される。たいていは都心部をいくぶん外れたところにあるが、いわゆる郊外とはちがう。それはスラムの住民が大都市に寄生しているため、ともいえるし、ある点では一般都市生活者と、相互補完のような関係もあるためだ。

東京の場合、1920年代末(昭和初め)までは有名なものだけでも4、5カ所は存在した。1899(明治32)年に刊行された、ルポライター横山源之助の『日本之下層社会』は、そういう地域に住む住民の衣食住を具体的に叙述している。横山の調査した時代にも、そののちも、貧民や貧民窟への社会的関心は高く、婦人雑誌などの好奇心の先行した文章をふくめて、相当な量のものが残されている。そのなかでとりわけ大きな評判をよんだのは、賀川豊彦の『死線を越えて』(1920)だった。横山はあくまでもルポライターの眼で、身分を隠して観察したのだったが、キリスト教伝道者の賀川は土地の住民のひとりとなり、生涯治癒することのなかったトラホームまでうつされながら、人々と交わった。

極端に窮迫している人にとって、もっとも切り捨てやすいものは衣服だ。着るものは、見栄さえなければ、あとは寒さしのぎの1、2片の布きれでことたりる。大阪のある地区で、1軒の八百屋のお客の足が遠のいて、売り上げが急に落ちた。理由はすぐにわかった。八百屋からそう遠くないところに交番所ができたためだった。買いものに来るお上さん達の多くは、夏のあいだは家で腰巻1枚か、せいぜいその上にチャンチャンを着るくらいですごす。開け放しの隣の家にあがりこんだり、近所の買いものも、そのかっこうだった。それが交番所のためにできなくなったのだ。男女とも上半身を出して家ですごしたり、労働したりすることは、「近代化」以前の日本ではべつにめずらしいことではなかった。

こういう世界の人々が、世間なみのきものを身につけなければならないのは、お体裁の必要な世間のなかに入っていかねばならない場合だった。だから外に働きに行く男や、学校に通う子どもは、とにかく1枚の、あるいは半天と股引に三尺というワンセットの着るものは持っている。前の晩のひと勝負でその半天も股引もすってしまった男が、寝たきりの病人のきものをはがして出てしまう、というようなことがある。救貧活動をしていた救世軍は、煎餅布団にかじりついて裸で震えている老人のために、いつも古着の包みを忘れなかったそうだ。サイズがルーズで、男ものと女ものの区別がつきにくい和服は、その点では便利だった。人情話の「文七元結」には、スッカラカンに取られてしまった左官の男が、女房の着ているものをひっぺがして吉原の出入りのお店に行き、眼の利いたお内儀に、女のきものを着ているじゃないかと見破られるくだりがある。女のきものは男とちがって、脇の下に人形という小さな開きがある。

1900(明治33)年という時点での調査で、東京市内の細民――貧困者の戸数は、1,855戸、人数は6,877人、四谷区の如きは26戸に一戸が貧困者ということになる(→年表〈現況〉1900年8月 「東京市内の貧困者」朝日新聞 1900/8/10: 4;1900/8/17: 4)。日本はまだ貧しい国だった。

乞食の存在も行政にとってはあたまの痛い問題だった。1885(明治18)年に、東京府下の乞食の数を529人とした調査があるが(→年表〈現況〉1885年4月 「乞食の数」東京日日新聞 1885/5/23: 7)、かなり疑わしい。横浜の居留地にはおおぜいの乞食がまぎれこみ、日本人よりも気前のいい異人さんにつきまとった。 新政府が極貧の人々に手をさしのべざるを得なかった理由のひとつは、先進諸外国の眼を気づかったためだったろう。

貧民、障害者、病身の年寄等への公的救恤は、1872(明治5)年に、本郷旧加賀藩邸跡の養育院の設立、というかたちで着手された。もっともかたちこそちがえ、江戸時代にも救貧の施策はないわけではなかったのだから、それほど自慢にはならない。

養育院は児童養護施設、老人養護施設、貧困者施設、施療病院を兼ねていて、収容人数は需用とはかけはなれていた。1896(明治29)年の探訪レポートによると、男性は養育院の三字を染め抜いた襟をかけた浅黄色の半天と、股引、あたまは毬栗。女性は長くて一尺、なかには五分刈に髪を短く切っている。そのあたまは、入院したときの彼らが「皆、毛虱の居らぬはなく、不潔言うばかりなし、如何に駆除の方法を凝らすも退治し尽くす方法もあらざれば、一見坊主頭となすなり(……)」ということだった(→年表〈現況〉1896年4月 「養育院(救貧院)の人々」報知新聞 1896/4/21: 5)。養護施設というよりも、拘置所のような雰囲気が感じられるが、それでもひとりの欠員があると数十人の希望者がひしめく有様だった。

貧困者や障害者、子どもをふくめて支援を必要とする社会的弱者に対する、この時代の行政の態度は、現代では考えられないくらい冷たかった。いわゆる孤児院をふくめた救護施設もいくつかできたが、養育院以外すべて私的な、たいていは宗教団体の運営するものだった。弱者に冷たかったのはなにも行政だけではない。病気のために養育院に収容されていた男が、同室者の隠し持っていた金64円と、衣類十数点を窃取して、院を抜けだしたところを取り押さえられた。それを報じた新聞の書き出しは「養育院へ送らるるほどの者に何れ碌なものは無けれども斯ういう太い奴も稀れなるべし」(朝日新聞 1902/7/16: 5)となっている。

世間から疎外された弱者がさしあたり生きやすいところは、彼らの利用価値をてっとりばやく生かしてくれる場所――法律の外になりたっているような社会だった。

(大丸 弘)