| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 445 |
| タイトル | 男性下ばき |
| 解説 | 男性が股間を覆うために下半身に用いる衣服は、維新後約100年のあいだに、褌(ふんどし)から短いパンツ形にかわった。太平洋戦争(1941~1945)前後の時点では、軍隊など特定の環境以外では、若い人はほぼパンツ形、中年以上の人ではパンツとふんどしが、半々ぐらいではなかったかと推測される。 それまで男性が用いていた褌は、六尺ふんどしか、越中褌(えっちゅうふんどし)かのどちらかだった。古くからあった六尺ふんどしは、一口に六尺というように細長い、ふつうは一幅の木綿の白布を股間から腰に帯のように巻きつけ、うしろで結ぶ。かんたんには緩まないようにしっかり結ぶので、緊褌一番、ということばもあり、股間の締まった感じが、パンツでは得られないふんどしの良さという。 たんに股間だけを覆うのに、パンツの数倍のきれを使うのはいかにも不経済だ。それにくらべると越中褌は、手拭いの一方の端に紐を通したかたちで、江戸時代寛政の改革に、老中の松平越中守が倹約のため推奨したという俗説がある。子どもはそんな故事は知らないから、一丁ふんどしと言ったりした。 六尺ふんどしは浜松屋の場面で弁天小僧が言っているように、呉服屋で真新しい晒しのきれを六尺切ってもらって締める、というのが見栄だったらしい。ふんどしの見栄というのはふしぎのようだが、江戸時代の男はなにかにつけて、これ見よがしにふんどしを露呈することがあった。というのも袴をはかない着流しで、裾をまくってすこしふんばれば、いやでもふんどしはちらつく。鳶の衆や職人はいわゆる七五三仕立できものの身幅がせまく、前がはだけやすかった。そのうえ彼らはよく片方の裾をまくった。 『当世百道楽』(1916)という戯著のなかには、褌(ふんどし)道楽という一章がある。それは東京のある小料理屋の七十になる親仁で、褌にかける金は惜しまない。「裸一貫に褌一本で倶利伽羅紋々の派手を競った徳川時代には、褌道楽はけっして少なくなかったということである。尤も江戸市中でさえ、裸同様な風態で往来が出来た時代で、ふんどしも人目につきやすいから、自然こういう道楽も多かったのであろう」と著者はいう。この親仁は木綿のふんどしなどしめたことはなく、着ているきものは木綿でも、いつでも白羽二重の上等なきれをふんどしにし、それもかならず毎日洗いたてのものに替える。でかけるときは必ず白縮綿のふんどしを締める。男は敷居をまたげば七人の敵がある。どこでどんなことになるかもしれない。汚れたふんどしなど締めていたら、男の面汚しだ、というのがその言い分だという。 落語の「錦の袈裟」は、女郎屋での裸踊りでの見栄だ。明治になっても、下等な宴席のお開きには半裸で総踊り、というのがめずらしくなかったようだから、錦はともかくとして、変わったふんどしの趣向はあったかもしれない。またそれ以上に、夏祭りなどの供奉者の行粧で、裾短かな祭浴衣を高くはしょれば、ふんどしの見え隠れすることもあったろう。 開化の御時世になってからは、とくに1872(明治5)年の違式詿違(いしきかいい)条例施行後、その第22条でこの種の露呈行為はきびしく取り締まられた。したがってそれ以後は、おおっぴらにふんどしを見ることのできるのは、海水浴場だけになった。 六尺ふんどしはきれが不経済ということは、かさばるということでもあり、洋服の男性がふんどしをするなら、越中ふんどしにするのがふつうだろう。また、六尺ふんどしは股間の膨らみは丸見えなのに対して、越中ふんどしは手拭い一枚分の大きさしかないが、紐のついていない方の端を前に幕のように垂らすので、より上品といえるかもしれない。 小さいきれの両端に輪になった紐のついている、もっこう(畚)ふんどしというものもあるが、ごくかぎられたデルタ部分だけを覆うものだ。特別な目的用で、女形が使うそうだが、現代ではポルノで見かける。しかしもちろんもっと生活的な用途もある。 江戸時代、肉体労働者の多くは夏のあいだふんどしひとつで働いたが、駕籠舁(かごかき)もまちがいなくふんどし商売だった。駕籠舁をひきついだ人力車夫も最初のうちはひどい恰好で、 夏は裸にちかい連中もいたようだ。やがて彼らに対する規制がはじまり、1880年代(ほぼ明治10年代)には菅笠、半天、長股引が義務づけられた。その後酷暑の季節にかぎり、半股引がみとめられている。しかし車夫の多くがその半股引もはかずに尻や股を露出している、という警視庁から人力車夫組合に対する警告が、1883(明治16)年4月に出ている(→年表〈事件〉1883年4月 「警視庁より人力車組合への口達」東京日日新聞 1883/4/5: 3)。翌月14日の取締では、1日で223人が説諭を加えられたという(→年表〈事件〉1883年5月 「人力車夫に説諭」読売新聞 1883/5/16: 1)。まだそれほど暑いという時期ではないのに、車夫たちが相変わらずふんどし商売であったことになる。 明治の新聞挿絵では、よほど大股びらきの乱闘ででもなければ、ふんどしの描かれることはまずない。挿絵中の人物は年齢も身分も多種多様だが、下ばきの見えるようなポーズであると、ふしぎなくらいだれもが、ピッタリした猿股風のものをはいていて、明治期であるとほとんどが太い横縞をもっている。おそらくこれが車夫たちに義務づけられた、ふんどしの上にはく半股引の部類だろう。 パンツ式下ばきがふんどしに代わってつかわれはじめたとき、この半股引をそのまま下ばきとしたのか、べつの新しいものをはいたか、の詮議はむずかしい。名称としては猿股が下ばきの最初の名前らしいが、女性に下ばきの使用を勧めるさいには、猿股という言いかたはまれで、ほとんどは股引、半股引の名を使っている。もっともこれは、女性に猿股、のイメージが悪いためかもしれない。 また、猿股引というものがあった。これこそパンツの最初のよびかたではないかと考えたくなるのだが、出現例が少なすぎる。 大阪府女子手芸学校校則の教授科目中に、つぎのようにある。 第四級生 縫裁 ○大津脚半 ○猿股引 ○巾着 男性の下ばきのパンツ――猿股は、ふつうメリヤス製で、紐を前で結んだ。その紐を横で結ぶ猿股の現れたことがある。横っちょで紐を結ぶ方がかっこうがいい、という理由から生まれたアイディア商品だったが、洋服にも和服にも横には明きがないから、外で小用の際、紐を解くにも結ぶにも不便、ということで早々にすがたを消した。 紐を上手に結べない子どものために、子どもの猿股にはゴムが使われた。ゴムを使うことや、下ばきをパンツと呼ぶことは、子ども物からはじまったらしい。ミシンを買った家庭で、【主婦之友】や【婦人倶楽部】などを見ながら、まず作ってみるのが、子どもの下着類だった。洋装化はここでも子供服が先頭を走っていた。 (大丸 弘) |