近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 446
タイトル 着方/着こなし
解説

マント式衣服や、打ち合わせ式で固定的な留め具をもたない衣服は、からだへの沿い方はゆるやかだ。打ちかけるだけか、ゆるい帯をしめるだけだった近世までの日本女性は、着くずれということばを知らなかったろう。着くずれを気にしだしたのは、おそらく明治も後半、何本もの紐をつかった、小包でもこしらえるような、堅い着方がひろがってからのことだ。

明治時代のきものの着かたでは、帯を低く腰骨のあたりでしめるのがふつうで、1900年代(ほぼ明治30年代)以後になると、若い女性の帯の高さがいつも話題になった。帯はその後やや低めになった時期もあり、それは1920年代(ほぼ大正末以後)、洋服のウエストラインが世界的に低くなったことの影響と考えられるように、ある程度は流行に左右されたが、むかしのように腰骨のあたりにしめるようにはならなかった。

和服の欠点としていつも第一に指摘されたのは、腰から下の頼りないこと、つまり裾がひらきやすいことだった。けれども裾の打ち合わせと、それがひるがえることは、きもの美のだいじなポイントといってよい。裾模様や裾回し(八掛)の色柄に心をつかうこと、さらにはその下の蹴出しや長襦袢の、思いきった華やかさは、計算された「思いがけぬ美」ではあった。室町時代の身分ある女性に見られる、返し褄、蹴出し褄のような美も、そこから生まれたもの。

袷の裏は、胴は紅絹か白絹であるが、裾回しと袖口のきれは、表によって色を選び、取り合わせる。表の色や(地)質に似た色と質というのが無難、とされているようであるが、質はともかくとして、裏の色は、着物を生かすてだての場でもあるから、無難というばかりでなく、大いに色のはたらき、心の言葉も使いたい。(……)ふとしたみじろぎ、動作、しぐさにつれて、こぼれる裏の色に心をこめたい。
(篠田桃紅「うら、おもて」【装】1983)
「あらツ!」と仰山な声を出して、若い衆の手に抱きすがったが、ぱっと捲り揚がった着物の下から、燃えるような緋縮緬の腰巻(けだし)の露われたのを隠そうともせずに、はたはたと木戸口に駆込んだ。
(小杉天外『初すがた』1900)

前をきっちり合わせなければ胸もゆるく、裾もひらきやすくなるが、動くのにはらくだ。着方はしょせんそのひとの生活のありかたとのかかわりだから、牛鍋屋の女中に女学生のような着つけをさせるのもむりで、その逆も無意味だ。おひきずりの女といえば、からだの動かない、怠け者をさした。

だから労働者や職人の多くは、横幅も丈も短めに仕立てた着物を好んだ。「伝法肌の兄さんが引っ張り居る七五三(後ろ身頃七寸、前身頃五寸、衽(おくみ)三寸)の如きは、一種毛色の変わりし、下等社会の着物にして、膝小僧を容赦もなく露わせる風俗、決して正人君子の学ぶべきものならぬを、意気を衒う婦人などは、こんな真似をして赤い蹴出しをチラチラと見する風あるが、これは悪い当込みなり」(→年表〈現況〉1895年9月 流行子「当世着物のきつき(1)」国民新聞 1895/9/6: 3)。

着物をみじかく仕立てないでも、彼らはなにかというと袖をまくり、裾をまくった。おそらく、職人たちの多くは、仕事中は身体にひっつくような股引腹掛のかっこうになれているので、からだにひらつく袖や裾がうるさい、という実感もあったにちがいない。これが遊び人や破落戸(ごろつき)のふうでもあるが、時代を問わずアウトローの下等部分のスタイルは、肉体労働する者のすがたそのままか、そのリファインされたものだ。

和服の着方のうち、明治期になにかと論議の対象になったのが端折り(はしょり) だった。はしょりは長すぎる着物の裾の処理として、明治前半期を通じて徐々に固定化した風習だ。

江戸時代の女性は、すくなくとも農山漁村以外では、「極貧の人を除けば」(『守貞謾稿』第二編)家では裾を曳いていた。そのため外出のときは腰紐をしめてこれに着物の裾の上部をからげる必要があった。だからからげとか、つまみという言いかたもあった。

おそらく1880年代から1890年代の期間(ほぼ明治10年代から30年代初め)に、東京でも京阪でも、家のなかで裾を曳く習慣がなくなってゆく。京都の装束商井筒雅風は、京都大阪では曳裾は明治20年代に消滅した、と語っている。明治生まれの人のなかには、母親がお正月に裾をひいていた、という記憶をもっている人があった。家のなかでの曳裾をやめたとき、女性たちは長すぎる裾を短く仕立てるのではなく、畳の上でも外とおなじように、腰紐にからげてひき上げる方法を選んだ。こうしておはしょりという、外国人には理解できない奇妙なものが、きものにつけたされることになった。

抑も裾を曳く用のないものをわざわざ長く不便に拵えて置いて、而(しこう)してこれをかかげるというのが根底から不必要である。まして中流以下の婦女、就中労働者が、なんの必要があって裾を曳く為の着丈より長いものを作って置いて、一生涯無用の長物を腰の周りに括りつけているのか訳が解らぬ。せめて是だけでも全廃したら、種々の点から社会に利益を与えるであろうと思われる。
(「見聞雑粗」【流行】(流行社) 1901/11月)

ほんらい一時的な処理のしかたにすぎなかったはしょりは、しばらくのあいだは礼装のときであっても、座布団を無造作に腰に巻いたようなみてくれの写真も残している。しかしやがて学校仕立て、学校着つけが、和服のすべてをリファインしていく。学校の裁断ではミリメートルの扱いはあたりまえだったし、ある女専の教授は、ミクロン先生というあだ名で有名だった。半襟の幅は何センチ、帯揚げは何センチ幅、とおなじように、おはしょり幅は定規を腰に当てたように何センチ、ときめられた。ふしぎなことにその時代になると、はしょりは丈の調節のためにもあった方がよい、という理屈よりも、はしょりのない和服の腰のあたりはなんだかさびしくて、まの抜けたようにさえ見えるという、眼の慣れの方が、説得力をもつようになった。

はしょりにかぎらず和装美は着こなしの面でも、洋服や、欧米のモダンアートにも造詣のふかい専門家の目によって、大胆にリードされていった(→年表〈現況〉1925年1月 「冬着物を形よく着る法」読売新聞 1925/1/20: 7)。

学校仕立が洋装的美意識を重要な根底としてもっていたのに対して(→参考ノート No.425〈和装の変容〉)、和服にはもうひとつ、無視できない美意識の世界があった。それは色町の芸者たちの伝えていたものだ。

芸妓社会の着付けは、胸に左右へ襞を取り、つまみを多くして、上前をぐっと引詰め、すがたは意気に相違なし、さりながらこれは良家の子女の学ぶべきものにあらず、かくする時は、歩きかたにても、坐りかたにても、其の風を学ばねばならぬなり。
(「衣服のきつけ」【衣服と流行】1895)

「素人と芸者と較べるのは、まるで鷺と鴉を較べるようなもの」(「素人と黒人との身嗜み」【婦人画報】1912/2月)と言った通人、平山蘆江の見方は、おそらくまちがっていないだろう。

(大丸 弘)