近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 444
タイトル 股引
解説

幕末明治のはじめに西洋服が入ってきたとき、上着は種類が多かったのに対し、下半身のズボン、トラウザーズ(trousers)系は形がどれもほぼきまっていて、それが日本の職人や農夫のはく股引とそうちがわなかった。その時代の欧米のトラウザーズはピンとした折り筋をつくらなかったから、よけい股引っぽくみえただろう。だからこのズボン――西洋股引と股引とのちがいによって、洋服の特色を理解しようというような口ぶりが、明治初頭の裁縫書にはみられることがある。

1880年代(ほぼ明治10年代)の裁縫書には、股引と書いてづぼんと振り仮名をつけているものをよく見る。そのなかで丸山万五郎『裁縫独稽古』(1886)では、85頁以下が「股引(ももひき)裁方」の章、95頁以下が「股引(づぼん)裁方」の章になっていて、「股引(づぼん)裁方」の書き出しはつぎのようだ。

股引(づぼん)を裁たんにはまず其の寸度(寸法)を測らざるべからず、第一脇丈にして(……)第二総丈にして(……)第三脛縫(股下)にして(……)股引の躰に合うと合わざるとは、此の丈の正と不正とに依るものなれば、最も注意に注意を加えて測らざるべからず。
(丸山万五郎『裁縫独稽古』1886)

股引と較べて西洋ズボンの特色が、より正確な採寸を必要とする、と考えている点は正しい理解だ。

一方で日本の股引は、明治時代についていえば新職業である人力車夫の股引が、他のものをおしのけて目についていたにちがいない。しかし車夫の股引は、在来風股引と較べるといくぶん短めだったと考えられる。それでは幕末以降の在来風股とはどんなものだったか。それに関しては大槻如電(1845~1931)のくわしい考証がある。

(寛政の改革後)パッチの股引が一般の用いるものとなりました。中等以上の人は秩父絹などで多く拵えます。五寸ダルミと唱えまして、足の太さより巾(きれ)を五寸広に裁って縫うのです。それですから風に吹かれますと、ブリブリいたします。尤も後には段々細くなりまして、三寸ダルミ、二寸ダルミとなります。此のパッチには膝の下へ紐を通せる乳(ち)を付けまして、遠路でも致します(……)。中以下は千草色の木綿、これは昔からです。職方の者(職人)は目盲縞(めくらじま)です。江戸では絹布(製)をパッチと申し、木綿を股引と申しますが、上方では総てパッチと申しまして、股引とは今いう半股引です。
(大槻如電「衣服のうつりかわり」(第六談の項)『花衣 一名・三井呉服店案内』1899/1月)

如電の言うように、たとえば1895(明治28)年に大阪で刊行された中村寿女『女子裁縫新書』の「股引裁縫法の項」には、「股引はぱっちの脚部のなきものを云う」とある。

職人の股引は盲縞にきまっていた。細密な縞なので一見、濃紺にしか見えない。「向こう見ずはく股引も盲縞」という古川柳があるように、威勢のいい鳶のお兄さんも同様。

居職の職人の多くは一日中あぐらをかいているから、あまり細い股引は都合がわるい。そうは言っても、立って歩くとき脛に袋を下げたような股引はいかにも不恰好だ。脚にピッタリしたパッチは、木場の材木人足川並(かわなみ)の自慢だった。二寸ダルミどころか、五分ダルミといって、はくときには靴べらのような竹の皮が必要だった。深川芸者はその細い脚に惚れたという。そんなパッチのことも川並とよんでいる。けれども座ったら立てなくなるようなパッチのいなせ風は、川並だけのものではない。

粋か無粋かしらねども、髪は結いたてから刷毛いがめ、
博多帯貝の口を横丁にちょいと結んで、
坐りも出来ないような江戸仕立のパッチを穿いて、
鬢の毛にちょっと挿す爪楊枝

というしゃれ唄も嘉永年間に流行した。

それとくらべて人力車夫のはいていた股引は、そんないなせとは縁のないものだった。初期の人力車夫には、維新前の駕籠舁(かごかき)あがりや、喰いつめた近在の百姓、苦学生、貧窮士族、と身分もさまざまなら、恰好も勝手次第で、客が怖れて避けようとするような薄汚い手合いも多かったようだ。なかでも官憲がきびしく取り締まったのは、もと駕籠舁に多いふんどし一本という連中だ。人力車夫に対する取締りは早くも1872(明治5)年4月の東京府令にはじまり、くり返される法令、口達のなかで、とくに彼らの下半身衣についてはやかましかった。1883(明治16)年4月にも、車夫の多くが半天のみで股引をはかず、尻や股ぐらを露出しているのを取り締まるようにとの、警視庁より人力車夫組合への口達があった(→年表〈事件〉1883年4月 「警視庁より人力車組合への口達」東京日日新聞 1883/4/5: 3)。その後人力車夫といえば、紺の半天腹掛に同色のパッチという、江戸の職人スタイルが再現されたような恰好が定着するが、1890(明治23)年になって、夏の間だけは半股引を認めてほしい、という請願は受理されている(→年表〈事件〉1890年6月 「暑熱に向かいて」東京朝日新聞 1890/6/20: 4)。

股引がふつう足首までの丈であるのに対して、膝のあたりまでのものは半股引という。どの程度の長さを半股引というかについては、1904(明治37)年に警視庁は、人力車夫、一般労働者ともに、股引が膝下に達しないときは、不合格、もしくは処罰の対象とするとした(→年表〈現況〉1904年8月 「人力車夫の股引は膝より下に」東京朝日新聞 1904/8/25: 5)。なおこの法令によって、明治末のこの時代、股引姿の労働者がけっこういて、その人たちの労働衣も規制の対象だったことがわかる。

1890年代(ほぼ明治20年代)の新聞小説挿絵を見ると、男性が膝上10センチくらいのパンツを和服の下にもはいている例が多い。たいていは太い横縞の柄をもつ。これが中間衣なのか下ばきなのかはっきりしない。この時代の男はたいていは褌をしていたはずだが、そうと決めてしまうことはできない。また事例は少ないが、下股引ということばもあり、これは下ばきのパンツであることはほぼたしかだ。

商家の奉公人のはく股引は職人のような紺色でなく、萌葱色であるのがふつうだ。子どもなら草色という。股引の場合、とくに千草の股引と言った。

すこし暑い時期になると、股引でなくステテコをはく男性が増える。男性はあぐらをかくことがあるため、和服の場合不作法になりやすい、というのもステテコをはくひとつの理由だし、ズボンをはいている場合は汗とりが目的だろう。

ステテコが初代三遊亭、鼻の圓遊(1850~1907)が高座で踊ったステテコ踊りから名づけられたのは周知のこと。この踊りは着物の裾をやたらにまくったそうだから、圓遊が車夫のはくものよりもうすこし長めで、もっとたっぷりした一種の半股引をはき、それが見物の目に残ったのだろう。客が男の毛ずねなどを見せつけられてはかなわないことが、わからない芸人はいない。『明治世相百話』(1936)で山本笑月は、はっきりこれを半股引と言っている。

男性が防寒のための股引をはくことは、和装洋装を問わず、むかしもいまもめずらしくない。年配者はラクダの股引を愛用した。

股引風の衣服は西洋では、基本的なアイテムとして古くから存在してきた。ただし肌着と外衣のズボンとの区別はあいまいなこともあり、この点は日本の股引も同様だ。はっきりとズボン下としてはく場合は、若者や、ダンディーさを目指す人は当然きらう。これはワイシャツ下のアンダーシャツとおなじ根拠だ。第二次大戦後には加えて、ステテコということばが嫌われた、ということもあるだろう。

(大丸 弘)