近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 443
タイトル 半天
解説

江戸時代、商人に対して職人たちを半天着の連中と言った。半天は用途としては羽織とだいたいおなじだが、商人は番頭になれば羽織を着ることができ、職人は親方になっても半天か、革羽織だった。明治になってそんな差別はなくなったはずだが、半天着という言いかたと、そういう意識もいくぶんか残っていたようだ。1929(昭和4)年という時期にもなって、新聞の相談欄につぎのような質問がみえている。

半纏一枚着の労働者ですが、職業上是非傷害保険をつけたいと思います。資格がありましょうか。
(都新聞 1929/1/26: 5)

おなじ[都新聞]の相談欄に、会社を不本意なかたちでやめた青年が、父親のブリキ職を継ごうとしたところ、父親は反対した。「父の意は、私が是まで洋服を着ての働きであったのに、急に半纏を着るのは世間への恥だ、というにあるのです」という訴えもほぼおなじ時期にみられた。

半天は広袖で、長半天といっても丈は腰から膝のあたりまで、羽織とおなじように衽(おくみ)をもたず、ふつうは木綿のはおり着だ。ただし細部の形にはさまざまなちがいがある。

半天の語源は正確にはわからないが、半は半分のこと、天は四天(よてん)を意味する、という説がある。四天は芝居で山賊の頭などが着ている、ドテラ風のはおり着で、捕り方の花四天などで知っているひともあるだろう。上の投書者のように「半纏」と書くことも多いが、これは明治時代に出てきたあて字。「袢天」もおなじ。

半天は袖が筒袖になることもあり、衽のあるものもあるが、丈はふつうの着物なみに長くはならない。それでこうした形のものを一括して、短着(みじかぎ)とよぶ。それに対してふつうの着物は長着という。こうした言いかたは学校教育や、民俗研究のなかからうまれたので、日常語にそんな言いかたはなかった。短着といえば、だいたい農漁民のものをふくめた労働衣を意味する。

半天は胸に紐のつくものもあるが、ふつうは三尺のような実用的な帯をしめる。職人や鳶の若い衆が紺の股引腹掛、それに印半天をひっかけて、豆絞りの手拭いを肩にかけたいなせな恰好は、深川の姐さんを泣かしたことだろう。

職人や鳶職が着る半天はすべて印半天で、印もの、という言いかたもある。出入りの商家、すなわちお店(たな)からの仕着せものがほとんどだ。職人も鳶も出入りのお店は一軒や二軒ではないから、年始回りなどには、何枚もの印ものの重ね着をするのが見栄だった。なにか不始末でもあって出入りをさし止められると、その家の印半纏はもう着ることを許されない。

上方役者の嵐瑠寛が、1881(明治14)年に東京乗り込みのとき、贔屓連に土産として持参した品々のなかに、大丸であつらえた印半天が300枚あったという。その5年後、浅草公園の祝祭の日、吉原芸者の手古舞が出るについて、土地の鳶衆に警備を頼んだところ、それには揃いの半天がいるという返事で、発起人は大慌てで染物屋に、60枚の半天を注文したそうだ。

他方、各地の農民の野良着は、すべてがこうした半天の古着だったから、畑を掘りおこしている百姓おやじが、思いがけない粋な印のついた、古半天を着ていることもあったろう。明治の末、足利あたりの反物の偽物を売って歩く人間が、田舎から出てきたことを装うために、「夫婦者が盲縞(めくらじま)の長半天を着て高荷を背負い、わざと田舎訛りを使ってやって来る」というような例もあった(→年表〈現況〉1907年12月 「贋物屋」朝日新聞 1907/12/27: 7)。

印半天の印というのは、背中に背紋、裾に腰回り、襟に襟先の文字の3カ所だ。背紋は大紋といって、明治・大正期はだいたい菱形にきまっていた。この菱形のなかに縦横の筋があるだけの単純なもの。腰回りの模様は源氏香のような田字崩しがほとんど。袖先は出入りのお店の屋号が入るのがふつう。

半天は東京でもそんな威勢のいい連中だけのものではない。羽織を着ておめかしをして銀座へ買いものにゆく奥さんでも、家ではしぶい唐桟の半天すがたですごすこともあったろう。とりわけ冬の綿入半天は家庭着として重宝だったから、たいていの家にはあったはずだ。洟垂れ小僧の半天の袖口が、こすりつけた鼻汁が固まってカチカチになっているのとか、お婆さんが陽あたりのいい縁側で、半天に丸まって針仕事をしているのとか、半天は庶民の日常生活にからむ、昭和戦前期までのなつかしい情景とむすびつく。家庭着の半天は、男ものと女ものとでは襟などの構造がすこしちがい、また俗にねんねことよぶ背負半天は、当然たっぷりめにできている。

やや特殊な例としては、たとえば救貧院である養育院の収容者は、「年頃五十位より三十位までの五六十人の男、窓際に居並び、いずれも養育院の三字を染め抜きし襟をかけたる浅黄色の股引半天を着け、頭は毬栗なり」といった恰好をさせられていた(→年表〈現況〉1896年 「養育院(救済院」の人々」報知新聞 1896/4/21: 5)。

明治前期、東京でどの程度の人間が半天着だったのかという、ひとつの参考にすぎないが、1895(明治28)年の池上本門寺のお会式に、男の着衣のうち、縞の袷に袷羽織が四分、単衣に袷羽織が三分、印半天が二分、紋付羽織と洋服で一分、という観察記録が残っている。この印半天の人たちは、縞の袷羽織を肩にかけていた、ということだ(→年表〈現況〉1895年10月 「本門寺お会式」国民新聞 1895/10/15: 3)。

その数年あとの1901(明治34)年、初夏の街を行く人を観察した太田宙花が、半天を着るひとが非常に減ったことを指摘し、「たまたま半天を着て居る人は米沢位の上等品で、羽織がないから半纏を着て来たというのではない、ホンの近所歩きにチョイと飛び出したとでもいう風(……)」と言っている(「途上雑観」【新小説】1901/5月)。半天は畢竟、江戸風俗、ということだろうか。

半天はしばしば法被(はっぴ)ともよばれている。このかたちの衣服が外国でハッピーコートとよばれたというのも、英国皇太子が来日のおり、土産として半天を、法被の名称で持ち帰ったためだ。

半天はほんらい、法被とよばれる武家装束の系統から派生したものだ。幕末以後は武家の衰退にともなって法被の使用が衰えたため、ふたつの名称の関係が非常にまぎらわしくなった。1930年代(昭和戦前期)に、江馬務、新村出、宮本勢助といった碩学が、そのふたつのものの来歴、区分について詳しい考証をのこしているなかから、江馬の結論をつぎに紹介するが、江馬の比較では、幕末の法被と半天が念頭にあるようだ。

明治時代では、ふたつはだいたいは同じもの、法被は古い呼び名、というくらいの、漠然とした通念があったのではないだろうか。

この両者の差異はつぎの如し。
一、法被は丈長く、脇あき、広袖も長い。半天は丈短く、袖は法被より短く、袖口は手口が小さい(今は広袖)。
二、法被には襟紐あり、襟を返して着る。半天には紐なし、返して着ず。
三、式目も法被は縹(はなだ)、茶。半天は紺や、鼠地に紺紋。
四、背の記号、法被は文様を古しとし後文字入りあり、半天は文字入り記号。裾周り、法被は画か筋、半天は文字。襟文字は法被は古くはなく、半天は姓などを記す。襟を法被は折り返すから裏に文字がある。
五、着用者は法被は半天より上格で、武家下僕、鳶の者、町家雑用人等。半天は町人、鳶の者、労働者、諸工、小商人も用いる。
六、場合は法被は火事のときに用い、半天は平日も用いられる。ただし京阪では平常用いるものは稀であった。
七、着用には半天は上に帯をすることがあり、幾枚も重ねることがある。
(江馬務「法被と印半天の相違について」【風俗研究】1934/6月)
(大丸 弘)