近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 441
タイトル 男性和服
解説

日本橋の染匠大彦(だいひこ)、大彦の野口彦兵衛は、「昔の若旦那てえ者はすべて役者や芸人の真似をした。(……)昔は三升鼠、梅幸茶なんてえ役者が流行の基なんで、(……)今日は役者や落語家までも、九州訛のまねをするようになった」(「衣服の新意匠」『唾玉集』』1906)と言っている。

大彦の創業は1975(明治8)年、彦兵衛28歳のときで、晩年の彼がむかしと言っているのは、大体は維新後のことになるだろう。わるい時代ではあったが、それでも大店の若旦那やその周辺には、根からの江戸育ちの人間のもつ、都会的なシャレや遊びの気分が濃厚だったはずだ。彼らの趣味性は、山の手の侍たちや、そのあとへ入り込んだ地方出の官員さんたちの、黒ずくめの饅頭のように大きな紋付の羽織袴に、江戸風の男の色気を添えるのに役だった。

彦兵衛の言うように、明治初頭の20年ほど、都会的な洗練を踏みにじったのが、西郷さんといっしょに鹿児島から入り込んだ、衣の関係でいえば薩摩下駄、薩摩絣、薩摩上布、兵児帯(へこおび)、書生羽織のたぐいだった。それは概して男ものの若者風俗で、彦兵衛の口ぶりから受けとれるように粗野なものが多かったが、なかには書生羽織のように変化と洗練を経て、明治期の男女の衣裳として定着したものもあった。

薩摩絣は紺地に白い絣柄が多かった。まだ子どもや若者のだれもが日常に和服だったとき、ふだん着として圧倒的なシェアをもっていたのは絣のきものだった。絣は各地から織りだされたが、その先鞭をつけたのが、上野の山の西郷さんも着ている明治期の薩摩絣の流行だった。

かすりの書生羽織は九州男児に限るように思い居りしが、本年は近県其の他、東京人も彼の羽織を着ることが大流行となりしかば(……)。
(→年表〈現況〉1891年12月 「絣の書生羽織」郵便報知新聞 1891/12/10: 3)

1876(明治9)年の廃刀令によって、外観による、武士と武士以外の町人、百姓との区別はなくなった。しかししばらくのあいだは、惰性的に、というべきかもしれないが、着るものの上での身分、あるいは職種の区別はいくらか残っているようだ。1883(明治16)年にもなって、大審院が出訴人に対して、士族は羽織袴、士族以外は羽織、または袴、という制限をしているのは特別な事例としても、商人の前垂に縞のきものなどは、仕着せの慣習の滅びるまでは昭和に入ってさえ、古い商家には根づよく続いていた。1883年、三菱会社が雇人全員を、地位の上下にかかわらず一定の服装としたときも、河内縞のきものに秩父縞の羽織だった。

男性のほとんどが洋服で勤めに出る時代になって、和服で金をかけられるのは、家庭でのふだん着しかなかった。そのふだん着としていちばん人気のあったのは、第二次大戦前の半世紀以上を通じて、おそらく紬だったろう。19世紀も末の1894(明治27)年に書かれた【家庭雑誌】の流行欄で、金子春夢は「春の袷に(……)男物は大島紬、やや安いもので結城紬か節糸織銘仙(……)平民的には男女を通じて綿秩父縞が第一(……)」と言っている。これは大島好みの推奨の早い例になる。8年後、1902(明治35)年の流行社の【流行】では、「目下男女とも略着の流行ものといえば、老若の差なく、上中の別なく、大島紬揃いというに憚(はばか)らざるべし」とある。菊池寛の短編小説「大島の出来る話」は1918(大正7)年の作品だ。この紬のきものを素肌に着る快感を、名人円喬が言い残している(→年表〈現況〉1910年9月 橘家円喬「着物や扇子も話に微妙の影響あり」【新小説】1910/9月)。

1920年代以後(昭和初め)になると男物和服はますます着る機会がなくなり、それにつれて当然のこと、趣味もわるくなったという。通人の宮川曼魚はこう言って歎く。

希に着られる和服の好みは大変悪くなってしまいました。外出着、訪問着などとしてよく着られる無地のキンシャに縫紋をした羽織、あれは凡そ悪趣味なものだと思います。(……)家庭着として今はどなたも大島のお揃いをお召しになりますが、もちろん柔らかくて丈夫な点、なかなかいいものですけれど、好みの上から云ったら、薩摩絣のお揃いがさらにいいものだと思います。
(→年表〈現況〉1934年2月 宮川曼魚「殿方の和服姿!好みが悪くなりましたね」読売新聞 1934/2/14: 9)

もちろんこれには曼魚の個人的な好みも入っているだろうが、この時代までになると大島も少々飽きられた、ということもあるかもしれない。

男性の和服が家庭の寛ぎ着だけとなり、夏のゆかたと冬の丹前――どてらが1枚ずつ、という家庭さえめずらしくなくなってきた1910年代、はきかたがわからない人が増えてきた男袴が、それほど減ってはいない、というレポートもある。

宴会などでは洋服では窮屈、着流しでは膝が崩れるというので、男子で袴を穿く人が多くなった。これまで流行っていたセルが廃れて、艶消しのシャッキリした宝生織、錦平織、千代平の細い棒縞などが好まれている。
(→年表〈現況〉1917年4月 「宴会には袴」読売新聞 1917/4/1: 4)
心身の落ちつきが出来て来るに従い、矢張り着なれた和服を用いる向きがだんだん殖えてきたことは、宴会や婚礼の席へいって見てすぐ夫れと頷かれるが、特に面白い現象として目だつのは、袴の着用者が近来増加したことである。夫れに就いて袴屋さんの話を聞くと「敢て儀式の場合ばかりでなく平常(ふだん)用として袴を着用することが各階級を通じて漸次増加して居ることは男子の服飾上面白い事だと思います(……)」。
(→年表〈現況〉1926年4月 「段々殖える袴の人」東京日日新聞 1926/4/17: 7)

時間を隔てた現代からみれば、この時期袴が好まれているという観察は、報告者のごくせまい視野からか、もしくは一時的現象にすぎなかったことになる。おなじ時期、こんな記事もある。

近頃の東京の大百貨店での売行きをみると、(……)学生以外、男の袴も売れなくなった。木綿問屋の番頭さんが洋服の世の中だから(……)。
(→年表〈現況〉1926年2月 「男の足袋と袴」都新聞 1926/2/7: 9)

袴の復活(?)とともに、おなじ時期に角帯も、それまでの兵児帯本位に代わって復活してきたという(→年表〈現況〉1919年6月 「男の和服」都新聞 1919/6/22: 3)。もっともふしぎなことに、兵児帯が廃れて角帯が好まれてきた、という報道は、明治の中頃からくり返されている。

(大丸 弘)