近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 442
タイトル 男性外套
解説

明治以前の男性には女性同様、とくに外套らしいものはなかった。寒ければ綿入羽織、あるいは厚綿の入った長半天の重ね着をするかだ。合羽は防寒のものではないし、これはおもに道中着だから、持っている人は少なかった。

衣服のなかでも、とりわけ外套のたぐいに関しては、あるかたちの、正しい名称をいえるひとはどこにもいないだろう。なぜなら、正しい名称などというものはないからだ。100年、それ以上も経った今日、われわれにできるのは、ある衣服を、それを着たり扱ったりしていた人たちが、なんとよんでいたかの証拠をさがしだすことだけだ。

1929(昭和4)年の4月9日、前鉄道大臣の小川平吉が鉄道疑獄に連座して警視庁に任意出頭し、早朝自宅を出るすがたが新聞各紙に掲載された。 小川の着ている外套を、[大阪朝日新聞]、[東京朝日新聞]の朝刊、[報知新聞]、[やまと新聞]、[国民新聞]はインバネス、[東京朝日新聞]夕刊は二重廻し、[東京日日新聞]はトンビ、[都新聞]は夏外套と書いている。

また、1927(昭和2)年12月、あたらしく朝鮮総督となった山梨大将の外出すがたを、[東京日日新聞]は「ラッコ襟に二重廻し、和服姿の大将」とし、[時事新報]は「トンビに中折片手」と書いている。

同時代の知識人にとっても、トンビ、二重廻し、インバネスなどの、名称とモノとの関係は不確かだったらしいことがわかる。二重廻しは和服用でインバネスは洋装用とか、インバネスは丈の短いものをいう、などとの主張もあるが、そうは思えない証拠もある。

防寒用のこの種の衣服は、外套とよぶのがいちばんまちがいがない。ただし外套ということばは、西洋風のオーバーコートをさす方がふつうだったろう。西洋式のオーバーコートは、何型であっても、ふつうは単にオーバーという。われわれは分類のうえで羽根つきの外套を、当時はあまりつかわれなかった言いかたで、二重外套と呼ぶことにしているが、これがさしあたり無難だろう。

明治中期のひとつの標準となる博文館の『衣服と流行』(1895)では、日本的外套としては、「鳶型外套」と「角袖の外套」というふたつだけが紹介されている。

また『東京風俗志 中』(1899~1902)ではつぎのような説明になっている。

外套は明治初年に行われし「トンビ」廃れて、風車起こり、既にして二重廻しあり、其の形に変遷あれども、近頃にいたりて背に襞あるもの(独逸形)行われたれども、二三年前より襞なきもの(英吉利形)最も流行するに至れり、また角袖(一に道行)というものありて、商人などの好んで着る所とす。
(『東京風俗志 中』1899~1902)

『東京風俗志』には、わかりやすい図も添付されている。

1909(明治42)年に俳人の岡野知十(1860~1932)は、「合羽と外套 今製の外套」と題して、白木屋の【流行】の3月号にかなりくわしい回顧談を書いた。要約すると、明治初年に、モヘルという毛長の羅紗をもちいた羽根つきのトンビが流行した。西南戦争(1877)をすぎたころから、むかしの合羽とおなじ形の、黒羅紗赤裏のマワシが流行した。いまのマントだ。その後しばらくして。下に裳がついて二重廻しができた。やがて襟がふかくなったり、腰帯がついたりつかなかったりし、裾の短くなったのがインバネスだ。そののちまた長めになって、むかしのトンビとおなじ形になったのが、いまの外套だ。維新後40年間、外套のかたちはいろいろ変わったが、大きくみれば、このトンビ式とマント式以外にはない。

岡野とおなじ1909年の新聞記事に、「流行の外套」としてつぎのような紹介があった。

男物の外套はトンビ、インバネス、オーバーの三種類である(……)インバネスと二重トンビとの違いは、只其の丈が短いのと長いだけである。
(→年表〈現況〉1909年11月 「流行の外套」東京日日新聞 1909/11/17: 6)

『東京風俗志』で、トンビが廃れた、といっているのは正しくない。トンビ(鳶)という名は開国早々に現れて、1920年代までは衣服名として生きていた。

岡野の言うように、1880年代(ほぼ明治10年代)には鐘、あるいは釣鐘、また蝙蝠とよばれる外套があったらしい。名称からいっても、マントの一種だろう。この期間にかぎらず、近代の前半には単純なマント形、つまり釣鐘型の外套が広く用いられている。わが国従来型の合羽はマントによく似ている。けれども引き回し合羽そのものは、もともと雨衣だったということもあり、名前を借用される以外、明治期の展開はなかったようだ。マントの利用は主に学生や軍人だったが、田舎の人の「赤ゲット」も見かけはこれに類するものだった。

田舎よりの上京したる者府下を徘徊するときは赤の毛布(ケット)を身に纏わざるはなし、すでに芝居にても田舎者を演ずる場合にては赤毛布を用うる程なりしが、此の程中より赤毛布次第に減少し(……)。
(服部喜太郎『社会有益秘法 実用宝鑑』1898)

ただし赤ゲットはマント風というだけで、構造的にはマントではなく大型のショールになる。

マントは関東大震災後は、高専の学生にすこし残るだけで、街で見かけることはほとんどなくなる。たまに出逢う将校マントを、子どもたちは畏敬の眼で見たりした。

後半に入って1920年代(大正末~昭和初め)以後、スプリングコートが現れると、それを追いかけてレインコートの人気がひろがり、とくに東京ではレインコートがスプリングコートの役までつとめ、その現象は戦後もつづいてゆく。

お天気の日にレーンコートを着て歩くのは日本人ばかりだなどと、知ったかぶりの「通」をいうのは誰だ!日本人には日本人流の服の着方が出来ている。浅い春の、むしろ肌寒さを覚える頃、あの鈍重な冬のオーバーからひと思いに明るいレーンコートを無造作に肩にしたダンディーな姿は、知ったかぶりの通の抗弁くらいでは消えはしない。スプリング兼用のレーンコート(……)のご案内、梅雨にはまだ二ヶ月もあるよとおっしゃるのは野暮と申すもの。
(→年表〈現況〉1934年4月 「スプリング兼用のレーンコート」東京日日新聞 1934/4/19: 8)

二重外套、すなわち羽根のついた外套は、和服にも洋服にも用いられた。構造的には、和服は袖が大きいので洋服用にくらべて和服の上に着るものは袖ぐりが大きい。しかし小さいといっても、洋服用の袖ぐりからきものの袖を引っぱりだすことはじゅうぶんできたから、共用は可能だった。また脇下のひろさを変えられる工夫もあった。洋服を着る機会のある人でも、和服を着ていることの方がはるかに多かった時代に、洋服専用、和服専用と二着の外套をもつのは、不経済だったにちがいない。

洋服の上に着る二重廻しを日本服の上に羽織るもの多くなれり。袂も露われ裾も出でたる様、お坊さん御成人という風にて、あまり見よきものにあらず。
(【都の花】1899/1月)
脇下は、和服用なれば袖を通すために広くし、洋服用なれば狭くするのでありますが、近来の流行は広くして、脇下の下の方を釦かけになし、和服の時は釦を外して着、洋服のときは釦をかけて着るのであります。
(『洋服裁縫之栞』1907)

洋服で二重外套を着る人は、近代後半になってごく少なくなった。紳士が馬車で舞踏会場に乗り入れる時代とちがい、みかけの大仰さが嫌われたこともあるだろう。

一方、和服の上に着る二重外套は、男性の和服の減少とテンポをあわせて、第二次大戦までゆっくりした下降線を辿った。和服用の二重外套は、関東では二重廻しとよぶのがふつうだった。1920年代以後(大正後半~)になると二重外套はたいてい襟に毛皮がつき、旦那衆などの着るものになっていた。インバネスというカタカナ名前や、トンビなどという安っぽいよびかたより、二重廻しの方が、旦那衆の耳にはひびきがいい。

和装の外套には二重外套以外に、角袖の外套とか捩(もじ)り袖の外套があった。二重外套が構造的にも外観でもいくぶんか重い感じなのにくらべると、角袖ももじりもずっと軽快で、したがって活動的だった。だから着るのも旦那衆というより、番頭さんや小商人、職人などににあう。角袖の外套は道行という別名があるように、在来風の道行に毛織物を使ったものかもしれない。だとすればそれは女性の東コートとおなじ発想のものだ。東コートも最初のうち【家庭雑誌】では道行形と呼んでいた。

外套は日本人にとっての新しい折衷式衣料品目であったために、創意や、小さな工夫、ちょっとした改変がたえずおこなわれ、それに勝手な名前がつけられた。1880年代から1910年代にかけて(明治10年代~大正前半期)はとくにそんな時代だった。つぎにあげるのは、裁縫書、実用書、雑誌の流行案内、新聞広告等から拾った関係のありそうな名称だ。

角袖長合羽(1882)、鐘、釣鐘、蝙蝠、廻し鳶(1888)、二重マント(1889)、二重マント道行、鳶形外套(1892)、二重鳶形、被布仕立角袖オーバアコート(1895)、道行合羽、西洋トンビ(1897)、都コート(男物、1898)、独逸鳶、英吉利鳶、長インバネス、半トンビ(1901)、二重合羽(1903)、ヤマトコート(男物、1911)、軍人廻し(1911)、二重トンビ、ムジリ外套(1919)、男吾妻コート(1899)
などなど。(大丸 弘)