| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 437 |
| タイトル | 訪問着 |
| 解説 | 訪問着は最初のうちは訪問服とか、社交服とよばれていた。1895(明治28)年に民友社から出た『社交一斑』中に、 訪問服(はれぎ) 訪問、遊歩、接待等の時に着用する とある。ただしこれは洋服についての説明で、日本人の洋服は大礼服とこの訪問服の2種だけ用意があれば可、としている。 和服の訪問服については、1904(明治37)年の近藤焦雨の流行時評に、 略着(訪問服、散歩服) 婦人物として最も売行きの可いのは、やはり引きつづき縞御召で、此れは晴れ着にこそ用いないが、散歩や又一寸した訪問の衣服としては、此れが大いに流行するのであって、紋御召は稍(やや)嫌われている傾向がある。 とあるのなどが、もっとも古い部類に属すだろう。 新しいアイテムや名称が、うまれて即、周知されるとはかぎらない。1926(大正15)年の[東京日日新聞]に、「訪問着というものが一般的に現れて約七年になるが(……)」という記事があって(→年表〈現況〉1926年10月 「クダけた模様の訪問着 東京日日新聞 1926/10/21: 5)、これだと訪問着の現れたのが1920(大正9)年頃ということになる。しかし【新小説】はべつにしても、以下に引用する[都新聞]、[読売新聞]、【婦人画報】の記事によっても、訪問服が1910年代初めから市場で人気を獲得していたことはあきらかだ。もっとも1910年代は、訪問服という言い方のほうがふつうだったので、日日新聞社の記者は、訪問着という言い方にこだわったのかもしれないが。また、訪問服、社交服という言い方であると、きものだけでなく、羽織も含めていうことがある。 その訪問着、もしくは訪問服とはなにかについては、最初からはっきりしていた。 三越呉服店の諸新案奥様のご訪問服三十歳ほどの奥様が、ご訪問用のお召物として調えましたるは、上布縞の千歳染の縮緬に、江戸褄といたしまして(……)。 三越で訪問服と称する、盛装の次ぎに位する程度の衣服には、小紋縮緬に代わり、無地の御召縮緬が勢力を張ってきた。 訪問着といたしましては、縞物では失礼だが、さりとて礼服でもあまり角立つといったような時、小紋代わりの無地ものが流行いたします。 縞物ではあまり軽すぎるし、小紋も古臭く、さればと云って無地物の総模様では重すぎますが、近来要約流行しはじめたこの訪問服はまことに適当のもの(……)。 この時代、女性の盛装、あるいは正装といえば、黒紋付の裾模様、白の半襟に丸帯ときまっていた。 裾模様の柄に変化があるとしても、あまりに単調でもあるし、場合によっては仰々しくもある。そのころの人は、ふだん着としては種類の豊富な縞物を着ているのがふつうだった。逆にいえば縞物は、それが縮緬でも御召でも結城紬でもふだん着だった。ぜいたくなふだん着、というだけのことだ。 小紋はものによっては準礼装となり、裾模様のつけられることもある。それは無地扱いということだ。明治になってからの小紋ははやりすたりの波が大きかったが、概していえば、上品だが地味で古風な印象のものだった。 1912(大正元)年の[都新聞]、[読売新聞]の引用にもあるように、訪問服という名がは三越のはじめたもの、という可能性はある。吾妻コートのネーミングを白木屋に奪われた三越は、その後、元禄模様、桃山模様など、商品のネーミングによって付加価値をあげることに熱心だったのはたしかだ。 しかしものとしての訪問着は、三越の商品とは関係なく、べつにいつはじまったというものではないだろう。西洋音楽の演奏会、女学校の同窓会、赤十字・篤志看護婦会の会合などなど、婦人団体の集いや慈善事業の相談――白襟紋付ではちょっと場ちがいだが、かといっていくらぜいたくでも縞物では失礼、というような機会ごとに、衣裳もちの上流女性たちは、そのときそのときの智恵をはたらかしたに相違ない。 1910年代後半から1930年代(大正から昭和初め)にかけては、訪問着は和装の人気の中心にいた、といってよい。 従来の紋付式服は今迄と違って、ホンの祝儀不祝儀だけの必要にかぎられて、あとは角張らない訪問服程度に紋付の需要が移って行くらしい。準じてあらゆる意匠と贅とはこの訪問服に集中されよう。 模様物とさえいえば、式服のことのみ思った時代は疾くに過ぎ去って、近頃はこの訪問服に全力を挙げて製作し、それが服装の中心になっております。 1920年代(大正末~昭和初め)と、それ以後の訪問着にはふたつのステップが待っていた。 そのひとつは、多くの女性が、むかしとは比較にならないような衣裳もちになったと同時に、女性の出歩く場所もひろがり、一種類の訪問着などでは、まにあわないような状況になったことだ。第二訪問着などという言いかたが、三越の創案ニュー・トーン模様の訪問着にはつけられた。これはつけさげ小紋を進化させたもの、といわれる。 一般にこの時代、日常生活への簡単洋服の浸透、という背景もあり、女性にとっての和服は、おでかけ着、おしゃれ着に特化する方向にあった。とりわけ羽織や訪問着はそのよい標的だった。 訪問着とか社交着とか云う呼び名が、今秋はあまり聞かれなくなりました。(……)略装から略装へと云われた標準が、さらに一層略装に移って来て、今秋の訪問着は最早、いわゆる普通着と殆んどその境界線が髣髴たる程度になって来て、特別にその標準を定めなければならぬほど、目立つものでなくなってきたのです。 第二のステップは第二次大戦後にかけてのことになる。きものの仕立ての贅沢さのひとつは、身頃と袖ぜんたいを、きれめのないひとつの絵柄とした、絵羽仕立てだ。一般にぜいたくな風潮がつよくなった1910年代とそれ以後(明治末~大正)、羽織やきもの、長襦袢、また浴衣に、盛んに絵羽仕立てがなされた。とりわけ絵羽羽織がよろこばれていた。ところが戦後になって、和服が一部の人々のきめつけで枠づけ、格づけされるようになったとき、絵羽縫はまるで訪問着に特化したようになる。 しかし世に出たころのかつての訪問服は、おしゃれ着ではあったが、白襟紋付とはちがう自由さのあることが、なによりの特色だった。 純礼装の裾模様ものは左様奇抜な意匠や、左様変わった模様の材料を許さない。そこでどうしても左様鹿爪らしくない、それで実用の傾向から脱した訪問服に、婦人がたの興味をあつめるのは已(や)むを得ぬ事であろう。(……)今日の流行は此の訪問服を主なる材料として其の意匠を働かせて居るのだ。 そのことは逆にいえば、訪問着だからといってなにも最上等の生地や、はでやかな柄ものとはかぎらない、ということでもあった。 1925(大正14)年2月の【婦女界】の「和洋服問答」では、訪問服として東京ではなにが流行しているでしょうという、地方からの質問に答えて、資生堂の三須裕は、御召、縮緬のほか、ふつうのものではなんといっても銘仙でしょう、と言い、御召では矢絣、とも言っている。また、1918(大正7)年11月の【婦人之友】の読者からの懸賞投稿に、「訪問服と申せば、御召か大島でなければ肩身が狭いように思われましたけれども(……)それよりは保ちもよく、割合気が利いて見えますのは、本場秩父銘仙の良い柄をえらび、匹で求めて着物と羽織にいたしましょう」とあって、入選している。 とはいえ一般的には訪問着が、はで好みだったその時代の流行のなかでも、とりわけはでな、大柄のものへと、むかっていたことはたしかだろう。 1931(昭和6)年という段階に入ると、「近頃は、柄合い及び縞柄が、大変大きく派手になって参りました(……)」という前提のうえで、「訪問着の仕立方で、普通の着物と、特別に異なって居るのは、紋と模様の合わせ方に 注意を要するので(……)」という助言が現れるようになる(高木やす子「和服訪問着とその仕立方」【家庭】1931/6月)。訪問着は絵羽仕立て、という方向へのステップは、すでにはじまっていたともいえよう。 (大丸 弘) |