近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 436
タイトル ゆかた
解説

ゆかたは湯上がりに着る帷子(かたびら)を短縮したことば。欧米のバスローブとおなじ目的だが、イメージはかなりちがう。バスローブは浴室にとなりあった化粧室以外では着ることはなく、衣服のかたちをしたバスタオルにほかならないから、季節にかかわりなくつかう。ゆかたは湯上がりのまだ水気のある肌を、夏の夜の涼しい夜風で乾かすという、特定目的のための衣服、というようにいわれてきた。

しかし貧しい日本の庶民のだれもが、そんなかぎられた目的のためだけの衣服を、持てたかどうか考えるまでもない。ゆかたは単純にいえば、夏の単衣きもの、というだけだ。明治時代から昭和になっても、イヤ戦後になってさえ、ゆかたはほんらい湯上がりに着るものだから、足袋をはいてはいけないとか、こんな柄はおかしいとか――、といった賢しらげな意見が、あきもせずにくりかえされてきた。なぜ、夏に着る単衣ものだから、湯上がりにも着る、という逆の考えかたができなかったのだろうか。

盛夏に着る単衣きものは、古いことばでは帷子といった。明治の末ごろの新聞に、東京では夏といえばだれもが中形のゆかただが、関西ではいまでも帷子を着ている女性を多く見る、という観察がのこっている。帷子は装束のいちばん内側に着る汗取りの小さなきものだった。中世の絵巻物に、袖などあるかなしかのきもの一枚で、洗濯している女が出てくる。多分あんなものも帷子とよんだのだろう。もちろん麻布だった。

麻は丈夫で、洗えば洗うほど白くなるが、ゴワゴワして肌ざわりはよくない。けれどもゴワゴワしているため肌にひっつかず、汗もよく吸いとるため夏の衣料にはわるくない。この肌につかない麻の性質を生かして、なんとかもうすこし肌ざわりの柔らかいものを、という工夫から生まれたのが上布だ。上布というのはそういう上質の布、という意味だ。極細の糸に紡ぎ、また丹念な布晒しをするなどの手間をかけるため、麻でありながら高級織物として取引された。

ゆかたはもちろんふつうは木綿布を用い、たいていは藍染めしたものだ。木綿は麻のような硬さがないから肌にひっつく。そのためゆかたには糊づけするのがふつうだ。戦前、洗濯機のなかった時代、いまのように洗濯は容易でなかったが、汗になったゆかたは丸洗いして、盥(たらい)のなかにほんの少し姫糊か、飯粒を練って薄めたものを入れてよく絞り、棹に吊しておけば、あすの夕方までには、大丈夫乾くだろう。男のゆかたの糊はすこしつよめにつけるのだが、若い女房などが加減をまちがえて、ゆかたが独りで突っ立つほどゴワゴワになったりする。

和服はそう毎日洗えるものではないので、けっこう汗になったものでも、脱いでそのまま棹に引っかけておくことも多い。日盛りにゆかたがけで外から帰った女が、軒先にそれを吊して、乾くまで腰巻ひとつで団扇を使っている情景などは、久隅守景の描いた夕涼み図にかぎらず、明治時代の下町の民家ではふつうのものだったろう。

肌にひっつかないようにするには、布の表面にシボを作るという手もある。糸に強い撚りをかけて織った織物は縮みといい、英語ではクレープ(crape)。現代でも夏の肌着は麻混か、縮にかぎる、というひとは多い。絹の縮みを縮緬という。だから夏の単衣ものは縮緬が、綿縮(めんちぢみ)とともに好まれた。肌ざわりで着るのだから、素肌に着るのがほんとうだ。

また、勾配織(紅梅織)のような畝織りも、肌ざわりの点では夏向きで、よく用いられている。大衆的とはいえないが、ひとによっては、紬のさらっとした肌ざわりを好んで着た。

話は高座の上の事になりますが、他人の事は知りません。自分は左様思うのです。衣服は、素肌に結城紬か、さもなくば真岡(もおか)の単衣でなくっちゃ宜けない。帷子や縮緬では身体にきまりが付かなくって、どうも噺が旨く参りません。
(→年表〈現況〉1910年9月 橘家円喬「着物や扇子も話に微妙の影響あり」【新小説】1910/9月)

円喬のような一流の芸人は、身なりに奢ることでは上流階級なみだったろう。その富裕階層に属する人々であれば、湯上がりに着るだけのゆかたと、それ以外の夏の単衣ものとの区別ははっきりついていたはずだ。 その上等のゆかたの例として、明治最末の呉服屋の宣伝には、つぎのようなものが勧められている。

まず御召の白地の模様形の絣物、または縮緬地乃至絽縮緬、或いは絽、変わり絽、麻等の友禅染の類(……)尚絵羽物としては、野晒し、明鴉等(……)下っては銘仙の白地の模様絣、或いは絹紅梅の中形、または絞り物の類で御座いましょう。
(【流行】(白木屋) 1912/6月)

ゆかたとは言っているが、こんなものを湯上がりの肌に着て、縁端で夕涼みするのはどんな階級の人々だろう。

ゆかたとしてもっとも一般的なものが、真岡木綿の中形染めだったことは、よく知られている。1907(明治40)年の三越【時好】では、旧来の中形染めは真岡が8割、綿縮が2割と言っている。真岡木綿とは栃木県真岡地方(現真岡市)産の良質の木綿。中形染めが盛んだった江戸に近いという地の利もあって、明治に入っても、ゆかたといえば真岡、という評判は崩れなかった。

中形染めというのは、使用する型紙が小紋染めのように小さいものではないことから。しかし大形染めというものはない。型紙を使っての木綿中形染めは、最初は素朴な地染めだったが、明治大正と時代の進むあいだに大きな進歩を遂げた。すでに1907年4月の【時好】の中形染め紹介のなかでも、「今日に於いては中形木綿ではなくて、友禅中形と云う様な趣になっている。否一歩進んで、木綿の両面友禅と言っても宜しい位、進歩して来て居ります」といっている。

型紙の製作も全国的になり、その図案も変化に富んだ、時代の趣味に添ったものが作られるようになった。そういう点からも、ゆかたはもはや、湯上がりに縁台で着ているだけのものではなくなった。

昼間の洋服を脱いで、花柄のゆかた姿で銀座を歩く若い女性。ゆかたの上に紋付きの黒羽織を着る紳士。一方では、消えてゆく日本人のきものの最後の砦として、寝巻のゆかたがいのちを保ちつづけていた。

(大丸 弘)