近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 433
タイトル きものの襟
解説

前で打ち合わせて着る衣服は、衽(おくみ)のあるなしにかかわらず、襟が開いているように思われがちだが、胸元が塞がっている衣服も多い。中国服では和服の長着のように前を斜めに打ち合わせたものを大襟(たーちん)、たいていのチャイナドレス(旗袍 チーパオ)のように丸襟のものを対襟(といちん)と呼んでいる。ただし和語の大襟(おおえり)はべつの意味になり、胸もとをゆるめて着ることの古い言いかただ。奈良時代に多くの大陸文化といっしょに隋・唐の衣服制度が入ったとき、日本人が学んだのは主として対襟の袍だった。だから衣冠、束帯はすべてハイネックの対襟で、それは今日宮中の儀礼服や神社の神主さんの服制に、またいくぶん変形し、竪襟というかたちで道服、道行、被布、あるいは和装コートといった、いわば傍流の衣服にも残っている。

日本人が日常の衣服として対襟を捨てたのは、考えるまでもなく湿潤な気候のためだろう。大陸にはTシャツ風のかぶり衣服もあったようで、これは日本ではまったく受けいれられなかった。

日本では衽を斜めに裁ち、前を交錯させる方式が主流となり、着装においてもこの打ち合わせ方に心をつかった。なかでも、ほぼ同型の衣服を何枚か重ねて着る場合の、襟や袖口の合わさりの美しさを重んじた。重ね着に執着した王朝人は、その色の重なりを襲色目(かさねいろめ)とよんで珍重している。

江戸時代から明治にかけては、冬は襲小袖(かさねこそで)を着ることが誇りだった。小袖とよぶのは絹ものの綿入れを指す。これを三枚重ねれば礼装として嫁入衣裳にもなる。襟が厚いとか襟つきが厚いといえば裕福なことをいい、襟につくといえば、幇間(たいこもち)などが旦那をとりまくことをいった。少しずつずらして着た襲衣裳の襟を、三つ襟とか三つ頚とかいって賞美した。礼装としての三枚襲(さんまいがさね)、二枚襲はそうめったに装うものではないが、春先は二枚袷となり、やがて袷一枚になる。明治時代の末からは袷の代わりにセルを着るひとが多くなった。

どちらにせよ内には肌着の襦袢、長襦袢を着、汚れやすい襦袢には小切れをかぶせ、その小切れを半襟とよんだ。重ねた着物の襟のいちばん内側に半襟がみえ、それがよくみえるように、外の着物の襟をかなりずらして着るのが、明治・大正時代には多い着かただった。

また、襦袢にかける半襟だけでなく、着物の襟にも黒い上襟をかけるのを、襟つきと言った。ほんらいは貧乏臭い仕方だったにしろ、下町ではけっこう富裕な階層までおこなわれた風習だった。

いま袷時、この袷時の女の形は就中黒朱子の襟をかけている事に於いて尤もよい形になるのである。日本の女の顔色を真っ白に見せて引き立たせるのは黒色に優る色はない。(……)この引き立たせ方を尤も巧みに応用してあるのは朱子襟と半襟とを並べてうつろわせる女の顔である。それほどの良い調和を忘れて、近頃上襟をかける女の少なくなって行く事を私は残念に思う。
(→年表〈現況〉1918年4月 平山蘆江「流行私言」都新聞 1918/4/29: 4)

ここで蘆江は自分の古風な好みを言っているのだが、それも下町風の好み、ということになる。

襟もとのチャームポイントは半襟だった。和服が日常のものだった時代には、半襟の専門店も多く、「えり何々」といった商号の店は、いまでもけっこう残っている。

襟もとの魅力はまた、そのひらき様、包まれた胸もとや首すじをどう見せるか、にもかかっている。江戸時代のきものは胸もとをゆるく着る傾向があったようだが、末期になると、髱(たぼ 髪の後ろ部分)が下がってきたため、抜襟が一般化する。

明治時代は、あんまり襟を抜けば芸者のように思われ、下品にもみえ、それに対して山の手風とか、女学生式という、襟もとをつめ気味に着る着かたがひろがった。西洋人とのつき合いや教育の普及のせいだろうが、高尚とか、品格とかいうことがうるさかった時代だった。しかし旧大名家や旗本の奥様の、襟を大きく抜いて襟白粉(おしろい)を見せた写真もけっこう残っているから、あまり杓子定規に考えるべきではないだろう。個人の好みもある。風俗とはそういうものだ。

襟もとの開くのを嫌う女学生などが、金属製の襟留金具をつかうようになったのは、1900年代(ほぼ明治30年代)に入ってからだ。襟留は飾りでもあったけれど、若い女の地味な銘仙きものの、きちんとあわせた襟もとに、小さな襟留が見えるのは、爽やかなものだった。しかしこの習慣は明治の末期、10年とつづかなかったようだ。

襟をあまり抜かなくなるとともに、当然、それ以前のように、まいあさ大肌脱ぎになって、背中の方まで襟白粉を塗る必要もなくなった。その時代、うるさい老人たちは、いまの娘たちの真っ黒な襟もと――、と、なにかにつけて罵った。襟白粉を厚塗りした首を見なれた目からは、素肌のくびすじはよほど黒く――ぶさいくにみえるらしかった。

「襟白粉を落としますと、白粉焼けがして見苦しいのでございます。白粉焼けの手当をお教えください。また、白粉は全然やめなければならないのでしょうか」という質問に対して、美容家はこう答えている。

どのくらいの白さにつけていらっしゃるのかわかりませんが、誰でも真っ白につけていて落とすと、そういう感じのするものです。それは白粉焼けでなく、見た目の錯覚だと思います。白粉をつけたときと落としたときと、雪と炭とのちがいがあるほどに化粧しなければならない階級の婦人は余儀ないことですが、普通の方は、襟白粉をあまり白くつけることは避けた方が宜しゅうございます(……)。
(小口みち子「美容理装相談」【主婦之友】1927/12月)

襟白粉を塗るには、あらかじめ生毛を剃っておかないと白粉のつきがわるい。襟白粉を塗らない人でも、襟首には剃刀をあてて、白い、冴え冴えした襟もとを見せようとしている人が多かった。ただし髪結さんでは襟剃りはしてくれないから、ちょっとめんどうだった。志賀直哉の『速夫の妹』(1910)のなかで、女学生のお鶴さんが、襖の向こうの部屋で、母親に襟を剃ってもらっているところがある。お前のこれは、毛じゃなくて垢だよといわれて、お鶴さんは、毛よ、毛よ、と抗議している。

その一方で、洋装の、わりあい胸をひろく開けるファッションの影響もあって、襟の開けようは、ひとさまざまにもなっていた。

若い極端な人たちは、ふくよかなる乳房が見える位までに前襟をゆるやかに合わせるようになりました。したがって此の前胸を明けるという流行は、半襟というものに贅沢をさせる必要はなくなったのであります。何故なら半襟というものを之までの様にひろく出そうとするならば、折角見せようとする前胸の肉の線を塞いでしまう事になります。
(→年表〈現況〉1924年9月 三須裕「当世女風俗」都新聞 1924/9/2: 9)

「若い極端な人たち」とことわっているが、きものの襟をずらせて着るのは半襟を見せるためでなく、白い胸もとを見せるため、と資生堂の三須が云う当世女風俗がどれほどの事実だったのだろうか。

和服の襟もとのたしなみは女性だけではない。細かなことだが、明治時代に正月の年始回りをする男性の三つ襟について、やはり蘆江はこんな指摘をしている。

以前は和服の礼装ならば、襦袢と長襦袢と胴着と、三つの黒八丈が男の胸にはきちんと重なっていなければならなかったものだが、今は九分通り色がわりの襟を重ねるようになっている。
(→年表〈現況〉1918年1月 「初春の年賀風俗」都新聞 1918/1/8: 5)

下町ではそれでも古風なしきたりを守ろうとするが、山の手のひとは年々礼儀に適わないなりをするようになってゆく、これは洋服に馴れたせいだろうと、彼は嘆いている。

(大丸 弘)