近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 432
タイトル 羽織
解説

羽織はいちばん外側に必要に応じて羽織るきもので、「はおる」ということばから羽織という衣服の名が生まれた。だから羽織という字は当て字で、古くは羽折とも書いている。

羽織って着るために普通のきものとはややちがう構造になっている。衽(おくみ)がなく前が開いていたり、脇下に襠が畳んであったり、襟を折り返して着たりなど。

外に重ねるものであっても、羽織はほんらい保温防寒のためのものではなく、儀礼的性格のものだった。まえの時代でいえば裃(かみしも)のようなものだった。その点が半天(纏)との大きなちがいだ。

明治のはじめには、それまで裃袴姿で出向いていた場所に、時代が変わったために羽織袴で出るということになった。高村光雲(1852~1934)によると、江戸時代の書画会には出席の画家や書家はみんな裃だったが、幕末になると大抵は羽織袴になってしまった。しかしひとりだけ、東条錦台という人だけは、御一新になってからもやっぱり裃を着て出席していたそうだ。

明治時代の礼法書を見ると、婚礼の三三九度の盃の際、新郎と仲人は裃であるのがふつう。各地の祭礼でも古様を保存している場合は、介添えの男たちは一文字の笠に浅葱色鮫小紋の裃すがたで、それが今風にくだけたのが羽織袴。だから裃に綿入がないように、綿入羽織も正式には用いない。

作家の山田美妙は明治30年代はじめに、羽織の約束事についてつぎのように解説している。

綿の入った羽織は男子に取っては略式用であるが、習慣上婦人に取っては正式用として差し支えぬ。が、成るべくは袷仕立てなのを尚(とうと)ぶ。しかし正式の正式たる場合に婦人は羽織を着ぬ定めゆえ、茲(ここ)に正式と言うのも準正式ぐらいな所である。
(山田美妙「羽織りの式制」『化粧と服装』1900)

羽織が男性にとっては礼装であるのに、女性にとっては略装、というのはわかりにくいようだが、羽織が裃の後継者と理解すれば納得できる。つまり羽織はほんらい男性の礼装なのだから、女性が羽織を着るのは僭越ということになる。家のなかなどで着るのは勝手としても、人前で着るのは遠慮しなければならないのだ。

けれどもすでに明治20年代には、女性も略装には、美妙の言いかたで準正式なら、羽織が許されるようになっていて、ほんらい紳士の格好だった黒紋付の羽織も、女性にふつうに用いられていたらしい。

女の黒紋附羽織は四五年来大分廃れたる体なりしが、今年はまた跡がえりて黒を着る婦人多く、上等は縮緬紋付、無紋のものも多し。此等は染め返しの倹約主義なるべし。
(→年表〈現況〉1891年11月 「染め返しの倹約主義」国民新聞 1891/11/26: 3)

「黒チリ(黒縮緬)のお羽織に丸髷、という細君仕立て」などという云いかたもあった(→年表〈現況〉1892年11月 「令嬢の勾印」朝日新聞 1892/11/9: 3)。

しかし1908(明治41)年という年になっても、「羽織は近来婦人の間に用いられていますけれども、これは不作法なことでございます」と言い続ける老婦人教育者はあった(棚橋絢子「私の好む服装」【衣道楽】菊月の巻(松坂屋いとう呉服店) 1908/9月)。

明治の前半期に人気のあったのが書生羽織だ。書生羽織は名前のとおり、最初はふところの寂しい学生たちに、オーバーやマント代わりに着られたものだったろう。丈が長く、綿入で、木綿、というのが初期の書生羽織の特色だが、着用する人が書生以外にもひろがり、女性までもが用いるようになると、書生羽織としての特色は失われてゆく。

1890年代(ほぼ明治20年代)に刊行された『日本社会事彙』の書生羽織の項目には、市楽、糸織、東華織、銘仙、琉球紬、大島紬、結城紬等々の高級素材が羅列されていて、もう金回りのわるい書生さんに手のとどくような衣料ではなくなっている。また丈もふつうの羽織丈のものが現れてくるため、末期の――1900(明治33)年を過ぎるころの書生羽織については、その実態がはっきりしない。

羽織はいちばん外に着て目立つものであるし、人前でぬぐことも多いから、ぜいたく着のひとつでもあった。1895(明治28)年7月の【家庭雑誌(民友社)】に、「上流社会に、絽市楽を無双仕立とした贅沢な夏羽織が流行」とある(→年表〈現況〉1895年7月 「袋仕立の夏羽織」【家庭雑誌】1895/7月)。

無双羽織はふつうの羽織のように胴裏を別布にするのでなく、表を裏に折り返して胴裏をつづけ、裏に染色加工をほどこして、前下がりで縫いあわせる。無双羽織はぜいたくなものにちがいないが、個人的な趣味のものにすぎず、羽織の展開のうえからいえば、夏羽織の方がずっと大きな意味をもっている。

女羽織は半天を着るような階級ではない人が、寒さしのぎにはおったものだ。それが1890年代(ほぼ明治20年代)の半ばごろから、暑いさなかに、裏つきの、絽や紗の羽織を着る風習がはじまった。盛夏の重ね着には実用的な意味がなく、当然そのことへの批判があったし、夏羽織嫌い、という人は後々まであった。「婦人の夏羽織は、近年の流行で、昔は剃髪の女隠居か、針医でなければ用いなかった」(【流行】(流行社) 1901/5月)というのはおもしろい意見。

暑さ烈しき三伏の候に、若き婦人の、見に添わぬ夏羽織着たる。
(井上秀子「近頃眼に余る事・憂わしき事・改めたきこと」【婦人之友】1918/11月)

けれどももっとからだを包む東コートにさえ、夏コートがあるのだから、そんな批判は耳にも入らなかったろう。また、下に着ている着物が透けて見えることに対する批判もあったが、むしろその点が、着る人のねらいかもしれなかった。

夏羽織はその後も捨てられることはなかったが、昭和に入るころからは、やや人気が落ちてきたようだ。

夏羽織くらい着ないでは、貧乏臭くて人なかには出られぬ、といった無理な流行は、大体世の中から廃れてきた、これは進歩だ。
(→年表〈現況〉1925年7月 「すたれた婦人の夏羽織」国民新聞1925/7/1: 5)

羽織のぜいたくさのもうひとつのものは、絵羽縫いの羽織だ。絵羽仕立ては、身頃と袖を通してきもの全体をひとつの大模様として仕立てるには必要な方法で、技術自体はべつに新しいものではない。呉服屋の商品として宣伝されたのは、1898(明治31)年初夏の三井呉服店の「新案夏物―絵羽友禅絽の羽織」などが早い例だろう(→年表〈現況〉1898年4月 「夏着流行案内(7) 三井呉服店流行夏着 行の部」国民新聞 1898/4/21: 4)。その後も呉服屋の目録では、絵羽羽織、絵羽友禅、絵羽浴衣の宣伝はつづくが、絵羽仕立てが世間から注目されるようになるのは、それからかなり時間が経ってからのことだ。

この絵羽模様というのが服飾界に初のお目見えをしたのは、一昨年(1927)の末時分からであるが、去年の末辺りまではほんの一部の人達が、恐る恐る試験的に着たに過ぎなかった。
(→年表〈現況〉1929年5月 「流行漫筆」婦女新聞 1929/5/5: 14)

デパートや呉服店のショーウインドウには、背中を中心に大きく模様の描き表された絵羽模様の夏羽織が、研を競い合っている――と、筆者は書いている。

(大丸 弘)