近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 425
タイトル 和装の変容
解説

明治から昭和初期――19世紀後半から20世紀初めにかけての和服は、当然日本人の日常生活に密着していた。しかしその時代も、きものの着方、着こなしについての教訓や注意、また議論や批判が多かった。その多さは、おなじ時代の欧米のエチケット・ブックとくらべるとよくわかる特色だ。

新しい時代になって、なにをどう着るかがそれほど問題になったのは、和服の場合、着るもののスタイルが固定していて、許容範囲がせまいためでもあった。14世紀以降のヨーロッパ社会では、たがいに異質的な衣文化がつねに交錯しあう一方で、ファッションという観念が服装のスタイルを支配してきた。それに対して私たちの祖先は、和服というスタイルを長い年月かけてほぼ純粋培養し、そのスタイルにどっぷり浸かり、衣服の機能に疑問や批判をもつことにも怠惰だった。だから議論の内容のうちもっとも多いのが、生活の欧米化によって生じる問題で、直接には洋装との関係だ。

この時代の作法書をみると、夜間の正礼装にはじまる西洋服装の、日常の手袋や靴にまでおよぶリストが1、2頁を埋めているのとともに、西洋風の立礼のマナー、女性に対する“courtesy”(慇懃さ)等が示されている。それは新しい時代の作法書の“prestige”(権威)の誇示でもあったろう。作法書の多くは女学校の教科書、副読本として使われたはずだ。服装規程のリストなどはほとんどの娘たちにとって、直接にはなんの役にもたちはしなかったろうが、こういった知識の習得は、欧米風の女性のあり方のイメージ、それは彼女たちが夢見る将来の自分たち――近代的な日本女性のイメージを考えるうえでの、ひとつの材料にはなったろう。とかく評判のあった、「女学生風」――のひとつの根拠だ。

女学生、そして学校出の奥様のきものは襟元をきっちりとあわせて襟をぬかず、帯を胸高にしめた。それはもともと屋敷風といわれた上品な着つけに近かったが、洋装のイメージに近かったともいえよう。1900(明治33)年という時点で、女学校にすすむ女性はせいぜい5人に1人にすぎなかったから、その影響力をあまり過大に考えるべきではないが、学校教育はとにかく少女たちの柔らかいあたまに、キチンとした、きまりごとを教えこんだ。裁縫の手ほどきも、母親や横丁のお師匠さんのようなあやしげな自己流ではなく、東京や奈良の女高師の高名な先生の教えが全国にひろまった。それは着かた着こなしにも云えて、明治末から大正期――1900年代の女学校出のお嬢様、奥様のきっちりした着つけは、すでに戦後和服の小包風着つけに通じている。それにくらべると明治の下町の女たちの、髪の結い様も着物の着かたも、どんなに勝手気ままの自己流で、だらしのないことか!

1920年代末頃(昭和初頭)から、着物のよい着かた、そのための細部の仕立かたに関する雑誌、新聞の記事がにわかに多くなる。これはその四半世紀後の、第二次大戦後のおなじ現象とは内容がすこしちがうようだ。戦後の娘たちは、ほぼ初心者として和服を学んでいる。和装は彼女たちにとって異文化といってよい。1920、1930年代に【主婦之友】や【婦人倶楽部】、あるいは【婦人之友】を読む女性のほとんどは、和服以外の経験のない人々であり、たいていの人がたとえ女中の手を借りるにしても、家族の着物ぐらいを縫いあげる技術はもっていた。つまりこの時代の着かた着こなしの記事の多くは、そんな読者を対象にした高いレベルのものが多かった。

たとえば、

標準寸法に従っているだけでは、いかに着付けに工夫しても身体に沿わず美しく見えない。繰越や袖幅袖付その他の寸法の変化で、身体に沿わせる工夫を。
(→年表〈現況〉1923年5月 「容姿美と和服の仕立方」読売新聞 1923/5/7: 4;5/8: 4;5/9: 4)

あるいは、

姿を生かす着物の着こなし先ず仕立て方から工夫着つけは腰帯一本がいのち
(都新聞 1928/10/25: 11)
現代好みな和服の仕たて 古いやり方に囚われず美しいカラダの線を生かして
(読売新聞 1931/1/19: 5)
いまの寸法は旧時代の遺物です時代にふさわしい寸法に改めましょうからだの線にピッタリと
(読売新聞 1932/1/23: 9)
着崩れのしないキモノの仕立方 これはお肥りになっていられる方に是非お薦めしたいと存じます。襟元も胸のあたりもいつもキチンとして崩れませんし、着つけも楽です。
(読売新聞 1934/6/16: 9)

ここに紹介したのは婦人雑誌の記事にくらべればかんたんな内容の、新聞家庭欄の記事のごく一部だ。これらの記事からわれわれは、

美しい着こなし←新しい仕立てかた←からだの線を生かす

という、共通する考えかたのパターンを認めることができる。この発想が洋裁技術から得られていることはいうまでもない。

高等女学校、高等師範学校では、洋裁教育と和裁教育とが、いろいろな意味で接近していた。洋装も洋裁も熟知している教師が、和裁の講座をうけもつこともあたりまえのことだった。和洋裁の交流は、とりわけ和服の仕立てに多くの新しい工夫をもたらしたが、その工夫の多くは、いままでは気にもしなかった小さなたるみや、ヒダ、つれ、といったものを、神経質な眼で排除しようとする努力のようだった。極端な言いかたをすれば、友禅模様のテーラード・スーツが、この時期の和裁技術と和装美をリードした人たちの頭のどこかにあったかもしれない。

からだの線に添った、姿のよい仕立ては、じつは高等女学校のお嬢さんたちよりも、着こなしの美しさが商売の花柳界の女たちや、彼女たちを顧客にもつ仕立屋にとっての、より切実な課題だった。繰越も、袖のつけ違いも、胸ぐせのダーツや、アイロンの使用も、大きな呉服屋の仕立部はかなり先行していたらしい。胸の膨らみを生かす襟つけの新しい技術を学ぶため、女高専の和裁教師が三越などの仕立部を訪れているのは、1930年代の初め(昭和初め)だ。また、繰越を高等女学校で教えるようになったのも、おなじころだったが、それを見て、女学校で芸者の着物を教えるのかと不審がる母親もいたそうだ。

からだの線を生かす洋服風の仕立てかた、着かたには、襟元をきっちり合わせた女学生風のイメージと、1930年代後半の【スタイル】に代表されるような、上品なお色気の近代芸者のイメージとが相並んでいる。

(大丸 弘)