近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 424
タイトル 和服の構造
解説

和服――近世近代の日本人の衣服は構造物としてはかなり不完全なもので、人がそれをからだにまとい、紐や帯で締めつけることによって、はじめて衣服としての格好がつく。そのため仕立てよりも、着方、着こなしの善し悪しが重くみられる。とりわけ明治以降の女性のきものには、腰にはしょりという揚げが生じたことと、帯結びが複雑になってゆくため、着ることをよけい厄介なものにしている。

その一方で、和服の構造自体は単純化の方向にむかっていると言ってよい。ここで和服といっているのは、さしあたり女ものの長着をさしている。じつは構造だけでなく、和服ぜんたいの種類も少なくなり、その意味では和装はぜんたいとして単純化してきた。

明治時代の高等女学校や女専技芸科の裁縫授業では、運針の訓練を兼ねた一つ身、二つ身という子ども物にはじまり、まず単衣物、つぎに袷、綿入、羽織、帯、男物と進んで、男女の袴に到達する。余力があれば半纏、股引、被布、襲(かさね)装束から、夜具の製作にまでおよぶことがある。少なくとも1910年代前後の明治末までは、こうした衣類は生活のなかに生きていたのだ。

1920年代(大正末~昭和初め)に、東京のある女専の裁縫科で、宿題として綿入の三ツ襲が課せられたことに対し生徒が抗議している。三ツ襲など、すでによほどの古風な家ででもなければ、婚礼にも廃れていた時代だった。また綿入も都会では嫌われはじめていた。

大正から昭和、そして戦後にかけて消えていった、和服の構造上の特色は多い。なぜそういう構造の特色が失われたかといえば、いちばんの理由は、和服が日常のものではなくなったためだ。いや、1920、1930年代であれば、かならずしも非日常というほどのことではないにしろ、夫が留守のあいだ、顔をあわせるのは姑と、女中と、ご用聞きだけ、というような閉ざされた日常だけのものではなくなったからだ。

1900(明治33)年以後の和服のおもな役割は外出着だった。子どもの入学式や親戚の結婚式に着てゆく裾模様のきものはそれはそれ、家族で新宿へ出て映画を見て、そのあとお食事をする、女学校時代の友だちと久しぶりで会う、そんな機会に着てゆくものが、暮れのボーナスに夫にねだって買ってもらう流行の錦紗だ。そんな、めったに着ることのない錦紗の羽織やきものでは、裾が擦り切れるのを心配したり、仕立て直しのための心遣いをする、などという必要は薄れる。

和服の構造の細部には、見ようによればけちくさいとしか言いようのない工夫が多い。

夫と知りあった頃、ネルのじゅばんの袖の、袖口にだけメリンスのきれをかぶせてある夫のそれが、私にはどうにも我慢出来難く思われるのであった。
(森田たま「六月 襦袢の袖」『きもの歳時記』1936)

森田たまの夫は大阪の旧家の息子で、そういう始末はあたりまえの習慣なのだった。彼女はつづけてこんなことも書いている。

子どものときお稽古に通っていたお琴のお師匠さんが、ある時やはりお弟子のどこかの若奥さんに、ちょっとごらんなさいとじぶんの着ている襦袢の袖を、ひきだして見せていたことがあった。袖と振りにだけ新しいきれをかぶせて、あとは古びたメリンスだった。
(同上)

見えるところにだけ見よい裂(きれ)をつかうという工夫は、着つけがゆるくて裏がひるがえりやすい和服では、裾回し(八掛)、下着の額仕立てなど、独特の効果を生んだともいえる。また、重ね着を貴しとする感覚の生きていた時代には、襟もとなど見える部分だけを重ねにする、比翼の技法も、安上がりの見栄としておこなわれた。

襦袢の半襟やきものの掛襟も、襟を髪の油や白粉(おしろい)の汚れから守ろうとの工夫だ。おなじ目的の抜襟、抜衣紋とおなじように、半襟や襟つきの着物が、それはそれで女のひとつの魅力を生んだことはだれも知っている。きものに縫いつける襟はたいていは汚れのつきにくい繻子地の黒襟だったが、もっと貧乏くさくなれば、襟首に手拭いをつっこんで、その黒襟の上に垂らしているお上さんも少なくなかった。

しかし和服の経済性のもっとも大きな特色は、たくさんの縫こみと、揚げだろう。和服の仕立てでは鋏を入れることにきわめて慎重だ。和服裁縫と洋服裁縫のちがいのひとつは、布地に対する敬意の差、ということができる。和裁ではきものをほどいて、布地を今までの逆さにし、傷んだ部分とまだ傷みのない部分を交換するということが、ごくふつうにおこなわれる。これは用布に曲線に裁たれた部分がない、ということの利点だ。

また必要な寸法でへらづけして、それを洋服のように裁ち切ってしまうのでなく、余分な部分は裏へ折り込んでおく。そのたくさんの縫込みは綿入れ同様、着る人のすっきりした容姿を損なうことになる。

明治も初めのころ生まれの老人が、むかしのものは丈夫だった、縫い直し縫い直しして、親子三代で着られる、などと言ったものだ。もっとも森田たまは、そんなものを着せられても、娘は心が華やがない、と正直なことを言っているが。

揚げは大きめのきものを、着る人の成長を待って、タックをとっておくことだ。だからもちろん子どものきものにほどこされ、ふつうは腰と肩とだった。女学生のスカートに何段かの揚げがフリルのようにつくられて、揚げなのか、装飾目的なのかわからないものもある。

肩揚げは「まだ子ども」のしるしだった。娘が17、18になるまで肩揚をしていることがあり、それは芸者屋の雛妓(おしゃく)もおなじことで、まだ売物ではないことを示していた。またこんなこだわりの例もある。

「私ねえ、姉さん、御奉公に行ったら肩揚とらなくっちゃいけないかしら………」

「そりゃね、まあ分からないけども、先様の御家風もないじゃなかろうと思ってさ」

「私や十八でもちんちくりんだから、まだとるのはいや、肩が妙になるんですもの」
(荷葉「半区域」読売新聞 1903/3/1 付録: 2)

(大丸 弘)