| テーマ | アクセサリー |
|---|---|
| No. | 321 |
| タイトル | 時計 |
| 解説 | わが国では江戸時代にすでに和時計の歴史があるが、一般家庭に時計が入りこんできたのはもちろん開化以後だ。1872(明治5)年の新聞は、奈良県がいかに時勢に遅れているかを説明して、脱剣は勿論洋服着用の人はひとりもなく、時計を持っているのは官吏ふたりだけ、と書いている(→年表〈現況〉1871年12月 「奈良県では今でも撃剣が盛ん」【新聞雑誌】26号 1871/12月)。われわれはむしろ、それでは東京などではそんなに大勢の人がもう時計をもっていたのかとおどろく。2年後の1873(明治6)年1月1日に太陽暦が導入されて(→年表〈事件〉1872年11月 「太陽暦採用のための改暦式」【太政官布告】第337号 1872/11/9)、現在のような欧米風の定時式24時間制になるまで、日の出から日没の間を6区分するという不定時法が日常生活では生きていたのだから、時計をもっていても、それほど役には立たなかったはずなのだ。 19世紀を通じ掛(柱)時計の普及は順調だったとみられ、1880年代(明治20年前後)末には、もうどんな田舎へ行っても、時計のない家はめずらしいくらいだった。それにくらべると携帯用の時計は、まだひとつのステータスをあらわすものだったようだ。八代目桂文楽がよくやっていた「つるつる」という噺のなかに、幇間(ほうかん)が時計と思わせてじつは天保銭を帯にはさんでいて、時間をきかれると「いま八厘(時)」とシャレで答えるというギャグがある。天保期鋳造の100文銅銭は明治初年まで通用していて、だいたい時価8厘だった。 その時代の携帯時計は、和装の場合だと帯に挟むにしろ懐に入れるにしろ、しっかりした紐か、鎖がついていた。たいていの人は懐に入れたので、懐中時計という言いかたが一般的になったのだろうが、和服の場合は袂に入れる人も多かったとらしく、夏目漱石のように袂時計という言い方しかしなかった人もある。そしてこの方が古い言いかたと考えられている。洋服であればもちろん内ポケットのなかで、チョッキには時計専用のポケットがある。提げ時計ともいうが、これはたぶん新しい言い方だろう。 時計がステータスをあらわすのだから、時計よりもいつも外に見えている鎖や紐はそのシンボルになる。女性はその鎖――たいていは細い金鎖――を首に掛けるのがふつうだったから、それを知らずにこの時代の女学生などの写真を見るひとは、ネックレスを妙な掛けかたをしているナ、と思ったりする。時計の鎖が女性の一種の装身具として重んじられたのは、1890年代から1910年代初めまでで、だいたい明治の後半といってよいだろう。 [国民新聞]の「流行の懐中時計」という紹介によると、1893(明治26)年当時の相場が、「実用的なるを好まば、米国製白銅無地無双側竜頭巻(九円五十銭)に如くはなし」とある一方で、「時計の連鎖の流行は(一)小判型 (二)喜平型 (三)角環繋ぎに止めをさし、銀鎖三円五十銭より四円、赤銅金張交ぜ六円五十銭より八円、米国製金着鎖七円」(国民新聞 1893/10/13: 3)とあって、鎖の贅沢にかなり比重のかかっていることがわかる。 とんで1900(明治27)年の[国民新聞]の「現時の時計の流行模様」という記事では、側(時計の胴体部分)の高価なものはもちろん金、安いものは銀、十に二三は七宝入りや彫刻つきだが、概して女持ちは変化が乏しい。それは時計の場合、髪飾りなどとちがって女性が自身で買うのではなく、たいていは夫なりなんなりに買ってもらう、つまりお授け次第のため、と分析している。また、鎖を使うひとと紐を使うひととの率は6対4くらい、この差の生まれるのは、鎖は男女とも和服にも洋服にも使えるが、紐は和服にしか使えないため、とある(国民新聞 1900/5/2: 5)。 恩賜の銀時計の制度がいつからかははっきりしないが、1899(明治32)年からはじまった東京帝国大学よりさきに、軍関係の学校で行われていたので、おそらく1890年代のいつかだろう。原則として天皇が臨席して首席、次席などの成績優秀卒業者に、銀側の懐中時計が授与された。帝大では1918(大正7)年という早い時期に終わってしまっているので、銀時計組というと陸軍士官学校、海軍兵学校の卒業生で、職業軍人の俊才の雛を意味した。ただし時計の歴史からいえば1910(明治43)年以後は懐中時計は過去のもので、腕時計の時代になっていた。それでも恩賜の腕時計に変わらなかったのは、褒章制度などというものが芥川龍之介の言い草ではないが、子どもがオモチャを貰うような、実用とは関係ないせいだからだろうか。 1910年代(ほぼ大正前半期)にはようやくわが国でも懐中時計の国産ができかかっていた。懐中時計にかぎらず、時計の国内生産については、なにはどこどこが最初、と断定的に書かれている資料が錯雑している。時計の国内生産こそ遅かったが、時計の修理は開化後のごく早い時期から日本の職人の手で行われていた。精工舎の服部金太郎の伝記を見ると、明治の5、6(1872、1873)年頃には、東京にもうかなりの数の時計職人が、時計商、あるいは時計修繕業の看板をあげていたようだ。こうしたたくさんの職人、半職人たちの手で日本各地で営まれている軽工業の場合、なにがいつ、だれの手で改良され、創案され、あるいは剽窃されたという事実をたしかめることは、ほとんど不可能だし、どうでもよいことだ。 腕時計が懐中時計にとって代わったのは世界的に1910年代以後、欧州大戦(~1919)の結果と言われている。それと同時にスイス等での技術の発展から、いちじるしく小型化して、いわゆる「南京虫」が出現する。女性が、はじめのうち腕巻きといわれた腕時計をするようになったのは、社会進出のひろがりとあわせて、このデザインの変化にもよるだろう。 1926年(大正15年)には、「婦人持ちの時計は、四五年前は懐中時計と腕巻時計が五分五分の勢いであったが、だんだん腕巻が勢力を占め、此頃では七分通り腕巻に変わり、同時にサイズは次第に小さいものが喜ばれるようになった」(→年表〈現況〉1926年1月 「婦人持ちの時計」読売新聞 1926/1/23: 7)とあり、一方でまたそれから3年後に、こんな記事もある。「十中の六七人は腕時計ですが、純日本趣味の人々には、在来の下げ時計が喜ばれています。下町の人々の間には、まだ盛んに下げ時計が用いられています」(東京日日新聞 1929/3/25: 6) 提(下)げ時計とは、懐中時計という名を嫌う人の言い方。和装で腕時計をしないのは、きものの袖先にブレスレットのたぐいは不調和だという考えからだ。とりわけ浴衣に腕時計は、別の意味からもナンセンスだと。 また女性は腕時計を腕の内側において、時間を見るとき肘の張らないようにするもの、という注意を母親が娘に与えていた。時計を見るときの袂の扱いかたに注文をつける人もあった。 (大丸 弘) |