近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ アクセサリー
No. 320
タイトル 手拭/タオル
解説

手拭が家庭からすがたを消すようになったのは第二次大戦後、1960年代(昭和35年~)だろうか。関係はないだろうが、ちょうど洗濯機が急速に普及しはじめた時期であり、多くの庶民の家庭にも内風呂ができた時期よりはすこし前のことだ。

むしろ、第二次大戦以前に、なぜ浴用そのほかに、タオルがひろく用いられなかったのかがふしぎだ。タオルそのもの、つまりパイル織物は、開化のごく早い時期に舶来していた。1880年代(ほぼ明治10年代)には、大型のタオルは首巻きとして愛用されている。白無地のタオルを、まるで毛皮かなにかのように肩に巻いて胸を張っている、地方地主さんの写真がある。

おなじ時期に、すでに京都では初歩的なパイル織物の製織に成功していた。それは緯糸とともに針金でなく、いかにも日本らしく、細い竹條を打ち込んでワナをつくる、という方法だったので、竹織とよばれている。普及しなかった理由のひとつは生産量が少なく、舶来品なみに高価だったためだろう。

【都の華】第2号(1897)の浴衣の項に、「西洋手拭の浴衣 大通が好みにて、通がり連の今頻りに持囃す」と、しごく簡単な言及があって、とにかくタオルの手拭は使用されてはいたようだが、洋品店で販売されている輸入品だろう。その後1910年代(ほぼ大正前半期)には、【都の華】に紹介されたタオルローブが「さざ波ローブ」の商品名で宣伝される、というようなこともあった。

外国製のタオル製織機がが導入されて、稼働しはじめたのがこの時期とされている。しかし結局、第二次大戦前のタオル手拭は、商品としては存在していたにもかかわらず、湯上がり用のバスタオルとしてだけの普及にとどまった。

江戸時代、手拭が単に手ふきや浴用だけでなく、ずいぶん広い用途をもっていたことはよく知られている。そのいちばんだいじな役割はかぶりものとしてだ。男も女もあたまに髷をつけていて、外へ出れば、道は都会も田舎もなく砂埃だった。また搗米屋や炭屋のように、職業柄、粉をあびる仕事もある。髪が汚れても洗髪は容易ではなかったため、ひとはなにかにつけて髪を覆った。都合のよいことに、大きな、凹凸のある髷は、手拭を落ちないように留めておきやすい。散髪勝手の法令が発せられたとき、神職など職掌として烏帽子(えぼし)をかぶらなければならない人だけは、除外すべきだという意見もあった。

『半七捕物帳』の怪談「春の雪解」の幕開けの部分で、夕暮れの入谷田んぼで降りだした雪に、半七はふところの手拭を出して頬かぶりをして歩いた、という描写がある。雨はともかく、東京辺りに降る「鶴の羽のような」小雪なら、手拭ひとつでもけっこうしのげたし、人によっては粋な姿にも見えたろう。おなじ半七の「熊の死骸」では、火事見舞いに乾分の松吉を連れて高輪辺まで出かけた半七が、思いがけない火に煽られて濡れ手拭に顔を包み、尻端折りの足袋はだしという恰好になった、とある。寄席の高座で噺家が、手拭ひとつを杖にも天秤棒にも使ってみせるが、これほどコンバーチブルな持ち物が今はあるだろうか。

手拭かぶりのうちでも頬かぶりとなると、顔をかくすという目的があるため、江戸時代には禁止されたことがあるし、江戸城周辺の一部の場所では、1872(明治5)年6月になってようやく禁制が解かれている(→年表〈事件〉1872年6月 「大手坂下の両御門」【新聞雑誌】49号 1872/6月)。顔を覆うのは身分を隠すとか、体面のため、とかいうのが目的だったろう。もちろんお忍びの将軍様や鞍馬天狗の覆面は、手拭一本では無理だ。

明治の御代になって見られなくなったもののひとつが、この手拭かぶりだ。散切りや丸坊主ではかっこうよく手拭をかぶれない。その点、日本髪や束髪の女性はながいあいだ、手拭かぶりがしやすかった。塵除けのあねさんかぶりにたすきを掛けた女の姿は、明治の主婦をしのばせ、それが白い割烹着姿の昭和の主婦に変わってゆく。

明治期の新聞の現代小説を見ると、女性が吹流しというかぶりかたをしている挿絵によく出あう。手拭を巧みに使ってきたのは歌舞伎の舞台演出だった。絵双紙屋伊勢辰の出した手拭かぶりの一枚絵が有名だが、そのなかのどれだけが実際のもので、どれが舞台の上の虚構であるのかわからない。若衆かぶりとか小姓かぶりとかいうかぶり様を見ると、いかにもそれらしく思えてしまうが。女が男と手に手をとって、人目を忍んでゆく駈落に、まるで宣伝でもするようにお約束の吹流しをする必要があるだろうか。吹流しは女の道行のかぶり方で、ただふわりと髷にのせた手拭の、片方を口にくわえることになっている。なお、この伊勢辰絵の手拭いかぶりの名称は、かならずしもじっさいにかぶる人を示していないことも、知っておく必要がある。たとえば、紙屑買の手拭かぶりは、吉原かぶりにかぎっていたという(幸堂得知「冠物及び手拭の沿革」【流行(白木屋)】1911/9月)。

もうひとつ、新聞小説に多く見るのは病鉢巻で、これも時代は明治の世界だ。病鉢巻は手拭を八つ折ぐらいに細く畳んで、頭の鉢にぐるりと回し、右の側頭部で結び垂れる。左で結び垂れるのは侠客で、助六はだから左鉢巻だ。頭痛のするときはこうすると楽になる、という説もあるらしいが、もし舞台の演出からはじまったものとすると、正直な大衆がそれを真似たのだろうか。破れ畳に煎餅布団の貧乏人でも、明治時代の病人は律儀に病鉢巻をし、丸めた坐布団のような枕の上に顎を乗せている。

鳶の者ややくざ、とかく威勢のいい稼業の兄いの手にしている手拭も、明治期の小説挿絵では頻繁に眼にする。人の家の玄関の上がり框に腰をかけ、片裾をまくって凄んでいるときなどは、かならず手拭を肩にひょいと乗せている。役者の芸談などでは、手拭の持ち方つかみ方で人柄を表現するというが、挿絵ではどうだろうか。

手拭の生産地としてもっとも名高いのは江戸、東京だった。意外のようだが、意匠で勝負の商品だから、製作者と需要家とが離れていないことが必要なのだ。ただし生産量でいえば大阪がはるかに大きく、1910年代(大正初期)で、専業の手拭染業者が東京に24、25軒、大阪が70余軒、といわれた。

手拭染は中形染の一種で、布は伊勢木綿を一番としたが、多いのは愛知県知多産の木綿。

手拭の柄でいちばん有名なのは豆絞りだ。豆絞りは「下賎の者、道楽者、物売り、船頭等が多く用い、上品向きではありません」(松本尚山「手拭使いぶり集」1941)ともいうが、もうすこし細かい芥子絞りや、たづな絞りとともに、だれにでも、どんなときにも使われている。東京では、薄藍染めの無地手拭に特色があったのだが、配りもの、貰いものの、けっこう派手な柄物を、義理で使うことも多かったろう。じっさい、手拭を金を出して買う家は少ない。商店、会社からとどく開業披露の印手拭、粋なところでは芸妓、芸人からのお年玉手拭、それで仕立てた浴衣を着るのも乙なもの、と思う人もあったらしい。

(大丸 弘)