近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 身体
No. 119
タイトル 寝具
解説

寝具は寝道具、また夜具ともいう。おもなものは掛ぶとん(布団、蒲団)、敷ぶとん、まくらの三種で、これはたいていの地域と時代を通してほぼおなじ。外国では床に直接ふとんを敷かないで、厚地のマットとか、木製金属製の寝台とか、オンドルや暖炉の上とか、あるいは逆に風通しのよいハンモック風のものの上とか、ヴァラエティがあるようだが、全体が温帯域のわが国ではそう変わったスタイルもない。ここではほぼ中緯度の地域――関東、関西を中心に考える。

掛ぶとんについては、現代と明治時代とのあいだには大きなちがいがある。それはいわゆる掻巻(かいまき)のたぐいが、ほとんど完全に消滅したことだ。掻巻は襟と袖とをもっている、衣服のかたちをしたふとんだ。だから袖夜具という言いかたもある。このかたちの夜具の歴史は古く、平安時代にさかのぼる。江戸時代に掛ぶとんといえばこれをさした。積夜具(つみやぐ)をした場合、一番上に載せた掻巻の黒い襟が三角形に盛りあがって、かたちよく、りっぱにみえる。

夜具のたぐいも地域によってよびかたが微妙にちがい、夜着と掻巻を区別して、掻巻は夜着のやや小形のものをさす地域がある。東京地方がそうで、その場合、夜着は綿の入り方もすこし厚めで、袖下に火打ち(燧)という三角の襠がついている。また、より大型の夜着で、左右の後身頃のあいだにもうひと幅の布が入る、背入夜着というものもあった。しかし夜着、掻巻ががだんだん廃れてゆく過程のなかでは、たいていのひとはそんな区別を知らず、掻巻とよんでいた。

掻巻の利点は襟や肩がしっかりとくるまれて、温かいことだ。暖房のなにひとつない明治の日本家屋の冬の夜など、年寄りにはかけがえがなかったろう。祖父といっしょに寝かされる小さな子が、大きな袖のひとつから頭を出していたりする。掻巻の欠点は、不衛生になりやすいことだ。要するに大型の綿入きものだから、洗濯が容易でない。何年も洗ったことがないのはむしろあたりまえだった。

夜具の近代史のひとつの方向は、より清潔に、というプロセスだ。掻巻はもちろん、掛ぶとんにはふつう黒い天鵞絨(ビロード)の襟がかかっていた。これは毛羽だった表面のビロードは汚れがつきにくい、ということもあるが、それが黒だということは、汚れがわかりにくいということでもあった。旅館の掛ぶとんにも黒襟のかかっているものがあった。森鴎外の『青年』(1910)の中に、田舎の安宿の夜具の描写がある。

布団は縞がわからないほどよごれている。枕に巻いてある白木綿も、油垢で鼠色に染まっている。(おそらく1887(明治20)年前後が舞台)
(森鴎外『青年』1910)

からだをくるんで寝るふとんについては神経質なひとも多く、ずっと後の時代でも、避暑旅行に掻巻と敷ぶとん持参、というのが流行した時期があるらしい。もちろんこれは書生や女中を同伴する上中流階級のはなしだが(後藤宙花「流行欄」【新小説】1903/8月)。

ふとんを清潔な白い布で覆うことは、病院や、外国式の営業をするホテルなどでは、当然早くからおこなっていた。その心地よさの経験からか、1890年代(ほぼ明治20年代)後半には、家事教科書や病人看護の手引き書などで、夜具の清潔、とくに白いカバーの使用が勧められるようになる。

シーツの使用が一般家庭でふつうのことになるのは、1900年代(ほぼ明治30年代)に入ってからのことだろう。1909(明治42)年の婦人雑誌にこんな通信販売記事がある。「夏期になると、布団の敷布が最も必要になります。清潔な敷布を用いることは衛生上によいばかりではなく、布団も汚れませんから経済上にも好都合です」(【婦人世界】1909/6月)。甲、乙、丙三種の敷布の値段は、それぞれ75銭。58銭、40銭。

もちろんそれ以前にも断片的な使用例はある。[都新聞]の連載小説〈近世実話 五寸釘寅吉〉中に、ある裕福な寺に強盗に押し入った主人公の寅吉が、住職が寝床から「這い出でんとするを取って押さえ寝床の敷布(しきぬの)を裂いて手足を縛り、ヤイ金を出さねえか、と脅迫すれば」とあって、その情景の挿絵がある。この作品は1899(明治32)年前半期の連載で、対象になった事件はほぼ10年前とされている。敷布云々までを実話のうちに入れる必要はないにしても、1890年代が、敷布の普及の途上期だったとは言えそうだ。

初期の敷布は現在のように敷ぶとん全体をくるむのではなく、幅の狭い布であたまと裾の部分だけくるみこんだ。だから敷ぶとんの左右がそのまま見えていて、なるほどそれで清潔の目的には合致するし、ふとん柄も楽しめるのだから合理的なのかもしれない。

また、現在の掛ぶとんカバーのもととなるような工夫――ふとんの裏に白木綿をつける、というアイディアも1900年代(ほぼ明治30年代)にははじまっている。ことに襟の部分については、枕の覆い布とともに、簡単に取り外して洗濯できる工夫が婦人雑誌などでも紹介され、各家庭に浸透していったものと考えられる。ホテルや旅館のその種の寝具についても、1910年代(ほぼ明治40年代)には、その衛生に関する規則が〈宿屋営業取締規則〉に盛り込まれた。

夜具としての毛布の使用がいつごろはじまったかははっきりしない。毛布自体は早くから普及していたので、個々の家庭では使われていただろう。1910年代(ほぼ大正前半期)にはいろいろなデータが現れだす。欧州大戦末期に綿繊維が高騰したため、これまでの綿の入った木綿のふとんに代わって、比較的安い毛布を使う家庭がふえた。これはとくに、寄宿舎などでは顕著だったが、もちろん軍隊ではもっと早くからそうなっていたはずだ。

明治時代を境にして、寝具のなかで大きく変わったものは枕だろう。それはなによりも髪形が変わったためだ。あたまに髷を結っていた時代は、後髪や鬢をつぶさないように、後頭部を木製の硬い枕にのせて休んだ。木製の枕を箱枕というが、真ん中がくぼんだ船底枕あるいは高枕というのもあって、おもに女性がもちいた。維新とともに男は散髪になり、もう木枕をつかう必要がなくなって、そば殻などの入った括り枕になった。女性が括り枕をつかうようになるのはもちろん束髪以後のこと。高枕には上に茶筒のようなかたちの柔らかい小枕がのせてあるから、硬くはないが、慣れないと首が痛い。はじめて洋風のベッドで、羽毛のクッションにあたまを埋めた日本の女性は感激したにちがいない。もっともその転換期に「枕問題」という考証を書いた村井弦斎(むらいげんさい)は、あまり柔らかい枕にかならずしも賛成していないが(→年表〈現況〉1914年3月 「寝具問題」【婦人世界】1914/3月)。

(大丸 弘)