近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 身体
No. 118
タイトル 寝姿
解説

夜、睡眠をとるときには、昼間とちがうかっこうをするのが、たいていの土地の習慣だ。夜は日中より温度が下がる。その寒さは布団を覆うことで防ぐことができる。昼間でも寒いときには布団を引っかぶっている怠け者もいる。昼間とちがうかっこうをする普通の目的は、からだを拘束せずに、もっとらくになりたいためだ。

そのために夜は上に着ているもの――つまり社会生活にとっては必要な、窮屈なからをぬぐ。だからとくに夜着る衣服というものではなく、拘束のない、やわらかい下着すがたになって寝る、というのがひとつのパターンになる。また、床のなかには日常の汚れをもちこみたくない、という心情のつよい人もある。手水をして口を濯ぐ、ひとによっては寝化粧するという行為も、ひとつの就眠儀式だったのだろう。ところが肉体労働をしている男のなかには、湯から帰るとふんどしひとつで飯を食い、酔えばそのまま布団に転がりこみ、大鼾(いびき)をかいて寝てしまう、というのがきまりになっている人間もいたようだ。だから布団が汚れて困ると女房が文句を言ったものだ。その女房も寝るときは湯文字に襦袢ひとつ、というのがふつうだったろう。

床に入るもっとも一般的な恰好は、男も女も肌着の上に古浴衣か、なにか気に入った単衣ものを寝間着として重ねた。明治時代はフランネルが人気だったので、やわらかいフランネルの単物が寝間着によろこばれたようだ。ネル地の寝間着やパジャマはその後もずっと愛用されつづける。

とくに寝間着はなく、下着になって寝る、というパターンとしては、きものの下に着ている長襦袢が、布団に横たわるときの姿になる。荷風日記のなかに、下女とふたり暮らしの芸者八重次が、深夜訪ねて来た人に長襦袢の上に半纏をひっかけて出ていった、とある。半纏がナイトガウンの役をしている(『断腸亭日乗』1926)。

ふつう芸者がお泊まりのときは長襦袢だが、堅気の奥様でも旦那様のお好みか、そうしている人があるという。戦後首相にもなった某保守政治家の奥様は、365日ちがった長襦袢で旦那様をよろこばせた、というはなしは有名だ。

寝間着のはなしとはちがうが、花街では芸者の古い長襦袢を縫い合わせて、布団の皮にする、ということもした。すべすべした燃えるような紅羽二重に、白粉(おしろい)の香りが浸みこんでいるわけでもないだろうが、あんな気持ちのいいものはなかったと、年老いた旦那衆が述懐している。

じつのところ、布団に横になるための衣服としては、打ち合わせに帯を巻きつけるというきものの構造は都合のよいものではない。寝相の悪い子どもでなくても、夜のうちに前がはだけてしまう経験はだれにもあるだろう。森鴎外の『心中』に、芸者屋の主人が毎朝、寝坊な芸者たちの布団を捲って起こすのが嫌がられていて、それは主人の下心がわかっているため、というくだりがある。

そのため、というわけでもないだろうが、すでに1897(明治30)年9月の【家庭雑誌】にワンピース風〈衛生寝間着〉の宣伝が載っている。このころの衛生とは、健康という意味に近かった。

1910年代にもなると、衛生寝巻などという特別な目的風の名称でなく、西洋寝衣(ねまき)(「簡単な西洋寝衣」【婦人之友】1913/7月)とか、ナイトシャツとかの名で、洋服系の寝衣の紹介が多くなる。つぎに示すのは[都新聞]の1917(大正6)年の記事。

ハイカラな流行が次第に我々の家庭へ流れ込んでいます。メリヤスの寝衣が流行したのが当今下火になり、沸々とナイトシャツを着る向きが出て来ました。(……)帯を締める習慣のある我々には何となく頼りない気がします。しかし着心地はなかなかいいものです。ナイトシャツとは活動写真でお馴染みの、西洋人が寝間で着ている着物の事なんです。婦人向きのシャツも襦袢も昨年あたりから毛メリヤスの駱駝色が大分用いられてきました(……)。
(→年表〈現況〉1917年9月 「ナイトシャツとシャツ」都新聞 1917/9/24: 5)

もちろんこれはあくまでも一部のハイカラ趣味にすぎず、たいていの家庭は、「ふつう大人の寝巻は、手拭い地の浴衣、ガーゼ晒布製の半袖単衣、絞りの浴衣などで、襟肩を広く開ける」というのが平均的だった(→年表〈現況〉1918年8月 「夏の寝具と寝巻の研究」【婦人世界】1918/8月)。

子どもや若い夫婦などからひろがっていったナイトシャツというのは、やがてパジャマといわれるようになる。パジャマはほんらいのパンツの意味ではなく、また海浜着としてでもなく、わが国ではだいたいパンツのくみあわさった洋風寝間着の意味でつかわれ、ひろがったのは1930年代(昭和戦前期)のことと思われる。

大阪の某百貨店で、最近とくに売上高の著しく殖えた、つまり最近素晴らしく寵用されるようになった品目を調査しました。(……)最近著しく売れ出したものに子どもと女性のパジャマがあります。子どもの寝巻きが、軽快で風邪を引かせないようにとパジャマになるのは判りますが、女性の場合は別に洋風の寝室がふえたわけでもないと思うので、これまでの長襦袢やガーゼ浴衣の寝巻きがパジャマになることについて、近代人が寝室風景に対して、より以上に関心をもちだしたことが窺われると云えないでしょうか?
(→年表〈現況〉1931年12月 「デパートの窓から覗いた近代世相」大阪朝日新聞 1931/12/22: 5)

同年6月の【婦人画報】でも、「日本流の寝間着よりピイジャマの方が衛生的でもあり、見た目にも美しく大変よいと思います。ここには国産の友禅メリンスをつかって、十七、八歳のお御嬢さんにふさわしいピイジャマをご紹介いたしましょう」と言っている(→年表〈現況〉1931年6月 「モダン味たっぷりなパジャマの作り方二種(婦人用)」【婦人画報】1931/6月)。

浴衣式寝間着の構造的弱点をもたない、という点からもパジャマは若年層や、きものを着つけない男性のなかにひろがっていった。ズボンをはきつけている男性の多くは、家で和服に着替えても、ステテコとよぶ薄地の膝下までのロングパンツをはくひとが多かった。寒いときはそのステテコをはいたまま、布団に入る人も少なくなかったろう。つまり男性にとっても、パジャマはそれほどの違和感はなかったと思われる。

女性が膝下までのパンツ――ほんらいのパジャマ――をはかず、薄地の裾長のワンピースで床に入る習慣が一種の流行になったのは第二次大戦後のことで、ネグリジェと呼んでいた。女性のパジャマ姿がひどく子どもっぽく感じられるようになったのは、ふしぎなくらいだ。それは下着文化などということばが賑わった時代だった。夜、ベッドに入るときは社会生活のからをぬぎ去り、いちばん楽なかっこうになる、という原則とちがうわけではないが、かたわらに異性がいるとなると、寝すがたもまた対人的な装い――からの一種になる。見た目はちがっても、毎夜ちがう長襦袢を着て床に横たわった奥様と、その心根は変わらない。

「わたしのナイトウエアはシャネルの5番」というハリウッド女優の発言は、白人としてはめずらしいくらい滑らかな肌をもっていたらしい彼女の、やや傲慢なウイットだったのだが。

(大丸 弘)