近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 身体
No. 104
タイトル 運動/体育
解説

運動のための運動をするという習慣を、江戸時代の日本人は、お正月の羽根つき遊びぐらいしか知らなかった。いやそれは開化の時代になっても、ほとんどの大人たちには未体験のことだった。しいて言えば、川や海に近いところに住んでいる人たちは、夏になると泳ぎを楽しむことはあったろう。江戸の人間でも、船頭などは泳ぎの稽古はしただろう。ただしそれは武士の、武術のひとつとしての水練と同様で、運動のための運動とはすこしちがうかもしれない。

運動をもっとも広い意味でとらえると、近代の運動は小学校の授業としての体操ではじまった。体操の時間は、その時代の人にはものめずらしかったらしく、いろいろなスケッチが残っている。やがて学校運動会の様子が新聞で報道される。1887(明治20)年4月の第1回の帝大の運動会は、東京市民の行事のように賑わったらしい。「赤チャマがんばれ、白チャマがんばれ」の華族女学校の運動会は、1894(明治27)年にはじまる。

学校体育で問題とされたことのひとつは、女の子に体操させることの可否だった。1893(明治26)年に刊行された『絵入 文明のふみ』という本には、男女の小学生が体操をしている挿絵が載せてある。男の子は洋服で、それものちのボーイスカウトのようなスタイルで、先生に倣って鉄亜鈴を握った両手をさしあげている。一方女生徒は、靴と袴はいいとして、着物はだれも長い袂、それにたすきを十字に綾なし、髪はお下げもあり日本髪もあり、この恰好でできる体操といえば、お遊戯風のものにならざるをえない。

女生徒向けの体操としては、日本女子大学校の表情体操がよく知られている。指導した白井規矩郎(きくろう)によると、音楽に合わせ、女らしく曲線的に身体を動かす一種の舞踊であるらしい。表情体操という名称は、眼を多くつかうことからのネーミングのようだ。だから小学生には向いていないし、あまり覚えん方がよろしかろうと、白井自身が言っているのはおかしい。

そんなあやぶみや模索にはおかまいなく、少女たちもスポーツの魅力を早くから理解していた。女学生たちに、いちばん人気のあったのはテニスだ。「テニスは殆ど如何なる女学校にも行われぬ所はないくらいで、女学生の無味乾燥なある学校生活に唯一の慰安を与えているのは、この遊戯である」(→年表〈現況〉1907年4月 「女学生の体育」読売新聞 1907/4/12: 3)とまで言われている。

テニスもそのひとつだったが、たくさんのスポーツが横浜を経由してわが国にもたらされた。横浜の居留地に住むとりわけイギリス人たちは、家が建つと、そのつぎにはテニスコートをつくったという。そしてそのつぎにはゴルフ場をつくりたかったのだろうが、狭い横浜の山の手ではむりだったため、最初のゴルフコースは1903(明治36)年、神戸の六甲山に4コースがつくられた。

日本人にスポーツの魅力を教えたのは在住外国人ばかりではない。横浜港に寄港するとりわけアメリカ軍艦の乗組員たちは、しばしば一高、慶應、早稲田など、日本の学校にベースボールの挑戦をしている。たいていはいい勝負で、つぎの日の新聞に詳報された。野球の伝来には諸説あるが、アマチュアといえ、本場のメジャーリーグも見ている連中のマナーからは、学ぶところが多かったにちがいない。

変わった例としては、アイススケートの伝来は、1882(明治15)年、東京在住のこれもイギリス人が、麹町区代官町あたりの、皇居のお濠の利用を申し出たのにはじまる、という説がある(→年表〈事件〉1882年12月 「皇居お堀でのスケート」東京日日新聞 1882/12/16: 4)。

運動が健康の保持や、体位向上のため、という理由は最初のうち理解されにくかった。剣術や柔術を教える町道場は、少なくなったとはいえまだ残っていたから、武術修業との混同もあったかもしれない。【風俗画報】の編集者である山下重民は、その頃けっこう多かった野球排斥論者のひとりだった。彼は学校体育として撃剣を推奨し、「野球の技はいかに上達するも、白兵戦になんの効果あらむ」(「学校生徒運動の本旨」【風俗画報】425号 1911/10月)と見当ちがいなことを書いている。

もうすこし広い視野の持ち主であった、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎の運動/体育観は、多少ちがっていた。彼は柔道を、人間性陶冶のよき方法と考えていた。剣術などの伝統的武術も、開化の時代となっては、殺傷の技術として世の中に受けいれられなくなったので、だいたいは嘉納の考えかたに追随した。そのためややアナクロニズムの精神主義に足をとられて、戦時中をのぞけば学校体育からは煙たがられ、近代スポーツの進む方向にも乗りおくれがちだ。

山下重民ほど露骨な言いかたをしなくても、運動/体育を心身錬磨のためのものとして、富国強兵の基本と見る人たちがいた。当然その中心は軍部だった。日清戦争に向かって陸軍の整備が進んでいた1880年代以後、1889(明治22)年には、中学校や小学校高等科の生徒を対象として、普通体操と併せて兵式体操を課するようになっている(→年表〈事件〉1889年1月 「兵式体操」【警視庁東京府広報】1889/1/4)。

日露戦争後の1909(明治42)年には、陸軍は文部省に対して、中学の体操を根本的に改めるよう要求している。海軍では大学スポーツに近い競技も若い兵たちによっておこなわれていたが、陸軍は概して、相撲以外のスポーツには関心を示さなかった。

1920年代以後(昭和初め~)、アムステルダム、ロサンゼルスとつづくオリンピックでの日本選手の活躍や、相撲、野球の人気のおかげで、スポーツは映画を追いあげるように、大衆の関心を集めた。1928(昭和3)年には、ラジオ体操の江木アナウンサーの、元気な声が流れはじめた(→年表〈事件〉1928年11月 「ラジオ体操はじまる」1928/11/1)。

(大丸 弘)