| テーマ | 身体 |
|---|---|
| No. | 103 |
| タイトル | 体格/体型 |
| 解説 | 体格、体型についての意見はたいていは比較の問題だから、日本人が自分たちの体格について比較する相手のいなかった江戸時代には、ほとんど言及がない。近世初期の屏風絵などを見ると、南蛮人はたしかに丈高くすらりとした体型に描いてある。しかし文字資料では、南蛮人がそれほど大男揃いだとも言っていない。もともとスペイン人ポルトガル人は西洋人としては小柄なせいもあるだろうし、またある説では、戦国時代までの日本人はかなり大柄で、その後300年の太平のあいだに縮んだのだ、という。 幕末に来日した欧米人の見た日本女性は、よく引用されるイギリス人イザベラ・バードの書いているように、「小柄で、醜くしなびて、がに股で、猫背で、胸は凹み、貧相」(『日本紀行』1880)に見えたらしい。上陸した横浜の町で見かける女性たちの着ているものが、黒っぽい藍色以外にないということも、外国人の眼にはわびしげに映ったようだ。 欧米人にくらべて貧弱な肉体、ということは、近代の日本人の大きなトラウマだったかもしれない。女性についてみれば、優しく、従順で、子どものように可愛らしい、という美点は、病弱で、非力で、短命、ということの裏表だ。日本人の体位をもっと向上させなければいけない、というのは、富国強兵の方向をめざす行政にとっての至上命題だったが、とりわけ女性に関しては重い課題だった。 近代前期の日本人の成人の体格については、いろいろな参考データがある。1885(明治18)年に明治生命保険会社が、契約者男子(19~60歳)2,499名に対しておこなった調査では、平均身長157センチ、体重51.9キロ(「生命保険契約者の体格」時事新報 1885/9/19: 2)。また10年後の調査によると、成人男子約2万人の平均身長が157.6センチ、体重52.7キロ、女性は146センチ、46.1キロだった(「体格調査」国民新聞 1895/5/16: 4)。 からだを大きく成長させるためには肉食をしなければいけないとか、子どものうちから牛乳など乳製品をたくさん摂る必要がある、などの食生活面、座る習慣を廃して椅子生活にするなどの居住スタイル面、運動を盛んにするなどの方面、いろいろな工夫と、とりわけ学校生活における実践の結果、まず身長に関しては最初に成果が現れだす。 すでに1900年代半ば(ほぼ明治30年代)には、「年頃の娘の、一体に身長の伸びてきたことが、著しく人の眼につく。背の高い若い娘が、背の低い年とった母親と並んで道を歩くのを見て、我等は微笑を禁じ得ない(……)背の高い、骨格の逞しい、血色のよいいまの娘は、もはや昔の箱入り娘にはならない(……)」(「体格のよい娘」読売新聞 1914/4/25: 5)という観察が現れる。 文部省発表累年比較表によると、1900(明治33)年以降、男子の身長にさほど変化がないにもかかわらず、女子の身長が高くなり、この傾向は人口5万以上の都市部にいちじるしいという。18歳の女子の場合、1900年は147.0センチだったものが、1930(昭和5)年には151.2センチに変わっている。 1922(大正11)年の[朝日新聞]は、「日本の女性はだんだん体格がよくなり、血色も美しくなってきた」として御茶ノ水付属高女のつぎの統計を紹介している。「日清戦争当時、1894(明治27)年の計測では、17歳の生徒の身長平均が149センチであるのに対して、27年後の昨年(1921(大正10)年)の計測では、153センチとなっている」。そしてその主な理由は、「30年前の御茶ノ水の生徒の、振袖にお太鼓結びで、しなしなしたダンスが唯一の体操だった頃と比べれば、全体として女性の運動ぶりが男性のように活発になったことは事実」と説明している(→年表〈現況〉1922年4月 「近頃盛んな女性の運動」朝日新聞 1922/4/28: 7)。 東北帝国大学に招聘されたアメリカのある人類学者は、日本の青年の身長の伸びは他国には見られないいちじるしいもので、今後もこの傾向は持続するであろうと述べている(「日本青年の身長の伸び」東京日日新聞 1928/6/14: 6)。 男子の場合、体格のよいのは農村青年、ついで学生で、これは近年の運動熱と関係があるだろう、下町の職工青年は相変わらず不良、という(→年表〈現況〉1917年6月 「学生と職工の体格」朝日新聞 1917/6/29: 5)。 からだの大きさもさることながら、1910年代を過ぎる頃から、洋服に似合う体型という、つぎの目標が浮上する。日本人にかぎらず、アジア系の女性たちは豊かな胸も、張った腰も、長い脚も、美人の条件とは考えていなかった。自分の体型についての身の上相談でも、大きな胸を恥じる若い女性が、1920年代くらいまではふつうだった。晒布をきつく胸に巻いて、胸の膨らんでいるのを隠そうとする娘さんが多かった。 腰や臀部についても同様だった。柳腰、という言いかたはだれでも知っている。美人の形容に「お尻なんぞは小さくて、有るかないかわからない、おおかた昔ここらにお尻があったかと云うくらいなもので(……)」(三遊亭圓朝『後開榛名梅香』)というのはかなり大げさだが。反対に、1910、1920年代には、「始終洋服を着ていますと、臀部が大きくなって、立矢の字に(帯を)結んだ時などは、実に不格好です(……)」といわれた(桜田節弥子「生活改善展覧会の批評」【婦人世界】1920/2月)。 かつては、女性のあしへの関心があったとすれば、足首より先の、かかとや指のもつ色気だった。芸者の粋な素足というのはそれだったし、谷崎の『富美子の足』(1919)もそうだった。それに対して20年代以降の洋装では、足全体のかたちと、バランスが問われる。「外国の街でも日本人はすぐ分かる、後ろから見て、脚が曲がっているから」という定評があったそうだ。それが1934(昭和9)年になると、松竹社長の城戸四郎のこんな発言がある。 楽劇部の生徒の脚が最近ぐんぐんよくなって行く、太かった足首の肉が次第に上に盛り上がってゆくように、ほっそりと引き締まってゆく、実にいい脚を、みんなが持つようになった。 あるいはまたこんな観察もある。 和服が美しいと言い、幾ら好きでも、この頃の女の子は、体格が承知しなくなっている。肩が張って、胸幅腰回りが発達して、第一動作が全然変わって来ているので、だんだん和服の似合わない女性が多くなってくる。(大丸 弘) |