近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 身体
No. 101
タイトル 作法/エチケット
解説

作法とかマナーとかいうものは、人間関係を円滑にし、社会生活に無用のトラブルを避けるための最低のルールと理解してよいだろう。それだけに、人間と社会についての認識がちがえば、マナーは当然変わってくる。徳川三百年の太平の世には、マナーに矛盾が生じるような世の中の変化も乏しかった。だからいわゆる礼法家というような人が、礼法なり作法なりは不変のように思いこんでいたのも無理はない。

明治時代の礼法家の考えていたのは、日本の伝統的な作法はそれはそれでじゅうぶん学ばなければならないが、あわせて西洋の儀礼を知っておく必要があるという、単純な和洋使いわけ論だった。それはちょうど和服と洋服のTPOでの使いわけと変わらない。その日本礼法には社交というジャンルがなかった。これはシンボリックなことだ。

社交とは、紳士淑女が対等の立場で食事し、舞踏し、会話し、文通し、交際することでなりたつ。そのための基本的なルールを、社交界に入ってゆく若い男女は覚えこまなければならない。そのルールが、その人の立ち居振る舞いに自然にあらわれることによって、人は優しさと、自尊心と、美しさとを身につけるだろう。

1888(明治21)年に東京府知事から、各区の区長を通じて公私立学校に通達された学校生徒の敬礼式がある。

(第一) 敬礼は上下の別を明らかにし秩序を正すものなれば決して之を乱すべからず衷心実に恭敬の意を尽くすべし
(第二) 尊重に対するときは直立して姿勢を正し手を前に垂れ眼を敬礼すべき人に注ぎ体の上部を少しく前に傾くべし

敬礼式の細目はなお(第三)以下もつづくが、わが国の礼法は、要するに上下関係を確認する儀礼であって、弱いものが強いものに屈服するサインの変形といえる。日本の礼法とは叩頭(こうとう)の礼式、つまりお辞儀の仕方、といわれるのも無理はない。

欧米の宮廷儀礼(courtesy)は、17、18世紀のルイ王朝の宮廷でほぼできあがったものを、ナポレオン時代に形式整備したものが基本とされる。皇帝や王族、大統領といったトップにたいする特別の敬意はあっても、そのトップも含めて、閉鎖的な特権的空間を、快い、豊かなものにしようとする相互努力が社交といってよい。ウイットのきいた会話、優美な身のこなし、それにふさわしいトップモード、それが社交界の華には求められる。わが国にタキシード(dinner-jacket)がほとんど受けいれられなかったのも、この服装が紳士服の中ではとりわけ、ファッショナブルな性格のものだったためだ。

1880年代半ば(明治20年代の終わり頃)、国会開設が10年以内に迫った政府の、苦肉の策といえたいわゆる鹿鳴館時代は、それと並行するように洋風化へのつよい反動の時期でもあった。ふつう1890年代を反動期というが、それは短期間熱病のように流行した、束髪や洋装の飽きられたことがめだつのであって、欧化への抵抗はその前から、むしろ鹿鳴館時代さなかのほうが実質的といえた。反動の推進役となっていたのは、天皇侍講(じこう)という立場にいた儒者の元田永孚(もとだながざね)だったが、その手先のように活動したのは、正流小笠原流宗家の小笠原清務(おがさわらせいむ)だった。

室町時代以来、武術指南の家柄だった小笠原家は、この時代、正流と庶流に、その正流はまた家元と宗家に分かれるという状態だった。しかし清務が新政府の諮問に応えていわばブレーンの立場にたたされたため、こののち小笠原流といえばわが国の礼法を代表することとなり、分岐の各流派が、あるいは素性のはっきりしない自称小笠原流礼法者までが、全国を「巡業」して善男善女の指導に任じた。こうした教えというものは、得てして末流になるほど硬化する。そして教えた人よりも、教わった優等生の頭のほうによく染みこんでいて、覚えこんだことを頑なに守ろうとする。

しかし世の中はいやでも変わってゆく。小学生の段階から、政府は、忠孝、節婦等の美徳への服従を体得させるための修身教育に熱心だったが、小笠原流礼法が座礼を基本としているにもかかわらず、子どもたちは立ち机と椅子で教育されているのだ。そのため女学校などには、ただ一室だけ畳敷の作法室を設けなければならなかった。やがて作法の時間がなくなったとき、この陰気な部屋は華やかな着付教室に変わった。

また、女性が長上にものを聞くときなどは、畳につく手の先は、後ろ向きにしなければならないと教えられてきた。1900(明治33)年頃の新聞挿絵の中でも、そんな手のつき方をしている女性がいくらも見られるが、畳に手をついてお辞儀する機会がなくなるにつれ、おそらくはあまりの不自然さのために、たいていの作法書からその教えは消えている。

上下関係、あるいは強者と弱者の力関係を確認する儀礼である礼法、あるいは作法では、もっとも弱い立場にあるものが、もっとも礼儀正しいひとであらねばならない。だから男尊女卑の社会における作法とは、とりわけ女性が心して学ぶべきことであった。羞恥という、弱さを外にあらわす一種の媚態が女性のいちばんの魅力とされたのも、女は弱いもの、という前提にだれも疑問をもたなかった時代の話だ。

(大丸 弘)