| テーマ | 身体 |
|---|---|
| No. | 102 |
| タイトル | 身体観/性 |
| 解説 | 身体と性についての認識という点では、明治のわが国はまだ、江戸時代なみの民度=文化水準にあったと考えた方がいい。 かりに1900(明治33)年という時点を考えても、半数以上のひとは学制公布以前に生まれていて、当然あたらしい時代の学校教育はうけていない。新聞の雑報(三面記事)や続きものは幅広い読者層をもっていたが、その人たちの多くは、ふりがながたよりの読者だったろう。その時代の新聞はすべて総ルビだった。 1889(明治22)年、【新小説】創刊号に載った、山田美妙(びみょう)作「蝴蝶」の挿絵が物議をかもした(→年表〈事件〉1889年1月 「裸体画をめぐる問題」【国民之友】37号 カ 1889年1月)。同年、内務大臣が、裸体婦人画を禁止するという意志を示している(【以良都女】32号 1889年11月)。内田魯庵(ろあん)はその渡辺省亭の絵を、まずい絵だとくりかえし言っているが、同時代の新聞雑誌の挿絵の水準からいえば出来のわるい絵ではなく、官女の身体の半分は裸身で、身分にふさわしく上品に描かれている。 女性の裸の絵、といえば、この時代の人のあたまにすぐ連想されるのは、あぶな絵といわれた春画のたぐいだったろう。春画は1872(明治5)年の違式詿違(いしきかいい)条例も含めて、開港の直後からくりかえし禁止の対象になっていた(→年表〈事件〉1872年4月 「東京府では次のことを厳禁する令」新聞雑誌 39号 1872/4月)。外国船の乗組員たちは日本に上陸すると、吉原で泊まり、春画をお土産に買って帰るのが、おきまりのコースのようになっていたらしい(→年表〈現況〉1890年3月 「春画の密輸出」東京日日新聞 1890/3/11: 2)。だから明治になっても、日本画家のいい内職として、春画はあいかわらず生産されていた。当局が神経質になるのにはそういう事情があった。 新政府が条約改正を目標に、国と国民を文明のレベルにひきあげようと躍起になっているのに対して、貧しい民衆は赤毛の異人さんからうまい汁を吸おうと、ときには恥も外聞も捨てていた。幕末以降おびただしい数の日本風俗写真が外国人の手で撮影され、アメリカではひとつの人気マーケットができていたようだが、その中には相当量のヌード写真が含まれている。1890(明治23)年の[朝日新聞]には、横浜花咲町の銘酒屋で女性が裸踊りをして、外国人に写真を撮らせている現場を押さえられたという記事がある(→年表〈現況〉1891年12月 「裸踊りの現場、押さえられる」朝日新聞 1891/12/22: 3)。日本女性、あるいは芸者が外国人のお座敷で裸踊りをする、という新聞記事はほかにもあるし、踊りではないが、『半七捕物帳』の「蟹のお角」にも裸写真がでてくるから、そうめずらしいことでもなかったのだろう。 教育をうける機会もなかった民衆の一部には、現代の日本人がもっている最低の社会性にも遠く及ばない、前時代的な下賎さと無智とが残っていたかもしれない。女と見れば性の対象としてしか見ようとしない、一人でいる女を見ればからかうか、卑猥なことばを投げかけるものと心得ている、そういう連中も、展覧会という、いままではなかったロハの見世物に、どっと押しかけたのだ。1910年代頃(明治末)までの文展など絵画展は、くりかえし開催された博覧会とおなじように、天下の遊民を集めてごったがえした。混雑にまぎれて、裸体画や裸体像に下品ないたずらをする人間は絶えなかった。監視する側の神経は休まらなかったろう。いたずらされる可能性のある作品はべつの方法で公開をという提案が、非常識とはいえない。 アメリカの日本案内の中には、日本女性の屋外での行水の紹介がある。洗濯用の大盥(たらい)はどこの家にもあったから、暑いときはこれを使ってザッと汗を流せば銭湯代が浮く。そんなつましいことを考えるような所帯には、もちろん人目を完全にさえぎれるような、家のなかの場所などあるわけがない。隣からチラチラ見えるような物陰で、お上さんと子どもは汗を流した。もともと夏は亜熱帯といってよい日本に住んだわれわれの祖先は、それほど人に裸を見られることを気にしなかった。銭湯の混浴がなかなかやまなかったのも、女性が裸を男性に見られることに無頓着、というのもひとつの理由だろう。地方の温泉などでは、女性が平気で男湯に入ってくる風習がずっとつづく。車中で胸をはだけ、赤ん坊に乳をやる母親は太平洋戦争後も見られた。 1910(明治43)年に東海道線のなかで、中流以上であるに相違ない18、19歳くらいの若い母親が、人前も気にせず赤ん坊のおむつをとりかえ、胸をひらいて乳を与えていた。たまたま近くに外国人の夫婦が乗りあわせていたため、観察していた記者は、「二人の西洋人は、始終顔を顰(しか)めておりましたが、如何に贔屓目にも、これは醜態と言わぬ訳には参らぬ(……)」(→年表〈現況〉1910年12月 「記者偶感の一事」時事新報 1910/12/8: 10)と憤慨している。この母親が日本人としてもたしなみのない女性であることは否定できない。ただし、おむつをとりかえることと、乳房を見せることとは違うレベルのはなしかもしれない。女性が乳房を隠すのは、ヨーロッパ人の奇習、という見かたもあるからだ。 これとほぼおなじ時期の、1900年代(ほぼ明治30年代)年に、女学生の定期身体検査の際、生徒を素裸にする必要があるか、という疑問が各地で生じた。関連する報告のなかには、中国地方のある女学校で、ひとりの生徒が紛失した5円札を探すため、学年全員を全裸にしたという事件がまじっている学年全員を全裸にしたという事件がまじっている(→年表〈現況〉1904年4月 「生徒裸体検査事件」東京二六新報 1904/4/21: 3)。 これと関連して思い出されることの第一は、明治時代、わずかの商品の紛失のため、嫌疑をかけられた女性が裸にされた事件が何回か起こっていること。第二は、一部の印刷局や、現金を扱う職場――バスの乗務などで、勤務後、裸体検査が行われた問題だ。検査自体は女性の上役がおこなうが、男性上司がかならずそれを監督した。 裸や、からだ自体に対するおおらかな無頓着さは確かにあった。しかしそれがデリカシーの乏しさに、さらには人権に対する無頓着さにも及んでいたと言わざるをえない。 (大丸 弘) |