近代日本の身装文化(身装画像)
説明 〈遡及資料〉和歌山県名草郡野川村の豪農の娘と、通りがかりの二等巡査の若者との情話の発端で、1874(明治7)年の正月二日のこととなっている。東京府はすでに1871(明治4)年に府内警備のため邏卒(ラソツ)三千名を採用し(→年表〈事件〉1871年10月 「東京府下に邏卒三千人」太政官沙 第553号 1871年10月23日)、武器として警棒を持たせている(→年表〈事件〉1872年8月 「東京府、邏卒のほかに番人を置く」太政官付録 第17号 1872年8月23日)。ただし、その邏卒の名称を巡査と改めたのは1873(明治6)年だが(→年表〈事件〉1873年2月 太田臨一郎『日本服制史』1989年)、それはあくまでも東京警視庁のこと。警棒は約三尺あって、巡査は三尺棒などと陰口された。だから屋根に乗っかった追い羽根の羽根を取ることもできたろう。(大丸 弘)
ID No. N74-001
出典資料 大阪朝日新聞
発行年月日 1882(明治15)年1月10日号 x面
資料タイプ 挿絵
身装画像コード D7re:[令嬢モデル]
D4ke:[警察官;目明かし]
Jnn:[年始のひとと街;正月の行事と遊び]
時代区分・年代 19世紀後半;1874(明治7)年
国名 日本
特定地域 和歌山
キーワード 羽根突き;邏卒(らそつ)
男女別 男性;女性
体の部分 全身