近代日本の身装文化(身装画像)
説明 〈遡及資料〉京都寺町の私塾の一部屋で、塾生たちが買ってきた駄菓子を囲んで芸者の噂ばなし。三人のうちふたりはまだ髷を結っている。散髪脱刀が勝手たるべしとなるのはまだだいぶ先のことなので(→年表〈事件〉1871年8月 「散髪、制服、略服、脱刀が勝手になる」太政官布告 第399号 1871年8月9日)、左の青年のようなざんぎり姿は東京以外ではめずらしかったはず。髷のふたりは月代(サカヤキ)を剃っていない。この髪風は幕末の流行のいわゆる講武所風で、それに倣っている人が多い。丁髷はこの時代ふつうには半髪と呼んでいるが、半髪、すなわち頭髪の半分くらいをきれいに剃っておくのはけっこう手数がかかったから、幕末の多事に奔走する若者はこういう風を好んだのだろう。ざんぎりは江戸時代にはもっぱら囚人の髪だった。したがってスタイルも決まったものがなく、この青年もまるで囚人のように見える。理髪業者もまだ不慣れで、ときにはずいぶん滑稽な失敗もあったらしい(→年表〈現況〉1872年4月 「東海道大磯宿の髪結床」横浜毎日新聞 1872年4月17日3面)。(大丸 弘)
ID No. N68-003
出典資料 絵入自由新聞
発行年月日 1886(明治19)年7月15日号 3面
画家・撮影者 二代目歌川芳宗(一松斎芳宗)(新井芳宗)(1863-1941)
小説のタイトル 新編教訓 三都面(8)
資料タイプ 挿絵
身装画像コード D2ch:[丁髷]
D2ot:[男の髪型]
時代区分・年代 19世紀後半;1868(明治元)年
国名 日本
特定地域 京都;寺町
キーワード 私塾;書生;散切り;着流し
男女別 男性
体の部分 全身;坐臥;横臥