近代日本の身装文化(参考ノート)
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1. 身体 101 作法/エチケット 作法とかマナーとかいうものは、人間関係を円滑にし、社会生活に無用のトラブルを避けるための最低のルールと理解してよいだろう。それだけに、人間と社会についての認識がちがえば、マナーは当然変わってくる。徳川三百年の太平の世には、マナーに矛盾が生じるような世の中の変化も乏しかった。だからいわゆる礼法家というような人が、礼法なり作法なりは不変のように思いこんでいたのも無理はない。明治時代の礼法家の考えていたのは、日本の伝統的な作法はそれはそれでじゅうぶん学ばなければならないが、あわせて西洋の儀礼を知っておく必要が… 1. 身体 102 身体観/性 身体と性についての認識という点では、明治のわが国はまだ、江戸時代なみの民度=文化水準にあったと考えた方がいい。かりに1900(明治33)年という時点を考えても、半数以上のひとは学制公布以前に生まれていて、当然あたらしい時代の学校教育はうけていない。新聞の雑報(三面記事)や続きものは幅広い読者層をもっていたが、その人たちの多くは、ふりがながたよりの読者だったろう。その時代の新聞はすべて総ルビだった。1889(明治22)年、【新小説】創刊号に載った、山田美妙(びみょう)作「蝴蝶」の挿絵が物議をかもした(→年… 1. 身体 103 体格/体型 体格、体型についての意見はたいていは比較の問題だから、日本人が自分たちの体格について比較する相手のいなかった江戸時代には、ほとんど言及がない。近世初期の屏風絵などを見ると、南蛮人はたしかに丈高くすらりとした体型に描いてある。しかし文字資料では、南蛮人がそれほど大男揃いだとも言っていない。もともとスペイン人ポルトガル人は西洋人としては小柄なせいもあるだろうし、またある説では、戦国時代までの日本人はかなり大柄で、その後300年の太平のあいだに縮んだのだ、という。幕末に来日した欧米人の見た日本女性は、よく引用… 1. 身体 104 運動/体育 運動のための運動をするという習慣を、江戸時代の日本人は、お正月の羽根つき遊びぐらいしか知らなかった。いやそれは開化の時代になっても、ほとんどの大人たちには未体験のことだった。しいて言えば、川や海に近いところに住んでいる人たちは、夏になると泳ぎを楽しむことはあったろう。江戸の人間でも、船頭などは泳ぎの稽古はしただろう。ただしそれは武士の、武術のひとつとしての水練と同様で、運動のための運動とはすこしちがうかもしれない。運動をもっとも広い意味でとらえると、近代の運動は小学校の授業としての体操ではじまった。体操… 1. 身体 105 社交ダンス―上流階級の時代 日本のフロア・ダンスの夜明けが鹿鳴館の舞踏会であることは、だれでも知っている。ただしそれは開化とともに入ってきた西洋の社交ダンスのことで、日本の舞踊だったらもちろん今さらではないし、じっさいこんな意見もあった。「近頃、猫も杓子もダンスというものを始めだして、女学校なぞも何処でもやる様子だがなんという醜態だ。それよりか日本の舞踏の方が手も動かすからよほど優美で且つ運動になる」(「投書―ダンスの流行」(読売新聞 1904/1/16: 6)。日本の踊りは手も動かす、という着眼はおもしろい。舞踏会だけでなく、1… 1. 身体 106 社交ダンス―市民たちの時代 1910年代(ほぼ大正前期)に入ってからの社交ダンスの流行には波があったが、関東大震災(1923)以後は、よかれあしかれ、一般市民たちのあいだに定着したと言っていい段階に入っていた。わが国の欧米風社交ダンスはもともと上流階級のものだった。したがって夏の軽井沢や、上高地、逗子や葉山などの避暑地の高級ホテルで、華族さんの息子や令嬢などを中心に踊られていた。わが国でも華族を中心にした社交界といえるような交際社会はあったし、とくに外交儀礼的な夜会には、訓練された踊り手のいることがのぞましかったから、海外生活の長… 1. 身体 107 姿勢/動作 開国後まだいくらも経っていない1872(明治5)年、日本人の腰の屈まった姿勢の悪さの原因として、下駄、畳の生活、帯、の三つを指摘した外国人があるという(→年表〈現況〉1872年9月 「日本人の姿勢」新聞雑誌 54号 1872/9月)。しかし武士たちは概してよい姿勢だった。刀をさして道を歩く侍が、背中を丸くしているのはちょっと考えにくい。撃剣の稽古では、背筋を伸ばすことをきびしく注意される。そういう訓練をうけている武士は、日常どんなときでも、身体をまっすぐ伸ばしている構えが身についていた。それに対して、商… 1. 身体 108 座り方 膝頭を揃え、足の甲を床につける正座、あるいは端座という座り方は、日本以外の国ではイスラム圏で見られる。イスラム教の信者は礼拝のさい、膝頭を揃えて床につけているが、足の甲は床につけず、指で支えていることもあるようだ。彼らが男女ともこの座り方をするのは、日に6回のメッカに向かっての礼拝のときだけだから、膝を揃えるという行為には、謹みの気持ちがあるものと考えられる。脚をひらいているよりも、膝を寄せる方が謹みの気持ちであるのは、座るときだけではない。「気をつけ!」と「休め!」の違いだ。この気をつけの姿勢でそのま… 1. 身体 109 清潔/衛生/健康 健康、医療に関することばは、西洋医学伝来以前には、その概念自体がなかったものも多く、当時の人にとっては耳新しかったろう。衛生、消毒、健康、栄(営)養、滋養、といったことばの中には、中国の古いことばをそのまま使っているもの、意味をいくぶん変えて用いているもの、新しくつくられたことばと、さまざまだ。日本の近代はコレラによって明けた、と言えそうなくらい、幕末から1880年代(明治20年代)にかけての、コレラの波状的な流行はすさまじかった。ただそのおかげで人々は、伝染だの、バチルス(bazillus(黴菌-独)… 1. 身体 110 病人と薬 明治と世の中が変わって、東京には銀行や裁判所とおなじような煉瓦造りの病院が建てられた。しかし庶民の多くはそういった威圧的な外観の病院はおろか、町の開業医の門を叩くことも稀だったろう。以前とおなじように、たいていの体調の悪さは、“我慢”でやりすごした。俺は医者にかかったことなど一度もねえ、と自慢する年寄りもけっこういたらしい。そういう老人には疝気(せんき)もちがよくいた。疝気というのがどんな疾患であるのかはっきりしないが、下腹部から睾丸にかけて痺れるような痛みのあるものらしい。『半七捕物帳』の「半鐘の怪」… 1. 身体 111 病気/医療 四百四病といわれた病いの中で、近代100年の前半期に、身装にかかわりのふかい病気といえば、疱瘡、梅毒(かさ)、肺結核の3つだったかもしれない。とりわけ梅毒と肺結核とは、人々を苦しめた。明治維新は病気という点から言えば、コレラで明けた、と言えるほど、幕末から約30年ほどのあいだのコレラの反復的流行はすさまじかった。海外からのその種の病原菌に免疫をもたなかった日本人は、ひきつづき赤痢、チブス、ペストなどの侵入にもおびやかされた。ヨーロッパの中世から17世紀あたりまでのあのペストの恐ろしさを歴史知識として知っ… 1. 身体 112 障害のある人 精神を含めたからだの障害の問題は、社会がそれをどうとらえるか、という点から出発する。どんな社会であっても、障害に対する驚きやおそれにつづいて、憐れみの感情はある。障害そのものをとり除くための工夫や援助と、障害をもつ人の生活支援とは別々の道筋で発展したが、ときにはいっしょになることもあった。明治新政府も発足まもない1874(明治7)年に、太政官より〈恤救(じゅっきゅう)規則〉を公布した(→年表〈事件〉1874年12月 「恤救規則公布」郵便報知新聞 1874/12/13: 1)。その対象を極貧、重病、老衰と… 1. 身体 113 皮膚害虫 過去にも、ひとに危害を加える動物は、日本の大部分の地域には生息していなかった。蚤(のみ)や虱(しらみ)、蚊くらいの小虫に苦しめられていた日本人は幸せだ。「蚤虱 馬の尿する 枕もと」という松尾芭蕉の句を例にするまでもなく、江戸時代の紀行文や膝栗毛のたぐいを読むと、着替えの1、2枚を振分にして旅するような連中の泊まる宿では、どこでも蚤には苦しめられたらしい。拡大鏡で見ると、蚤はいかにも跳躍力のありそうな長い脚をもち、スマートな恰好をしている。西洋には蚤のサーカスもあり、シャリアピンの歌う蚤の唄もあって、憎ま… 1. 身体 114 入浴 日本人の入浴好きは明治初(1968)年に来日した欧米人にも知られている。しかし日本の夏の蒸し暑さを知れば、とくに日本人が清潔好きだから、という理由ばかりでないことも理解したろう。あわせて欧米人、とくに医師たちは、日本人の入る湯が熱すぎることも警告している。おなじころ外国旅行した日本人は逆に、西洋の湯はまるでひなた水のようだと、口を揃えて不平を言っている。またシャワーのことは夕立風呂とよんでいて、わが国では水道の普及後もあまり利用されなかった。日本人、というより江戸っ児の熱湯好きは、湯屋から家に帰るまでの… 1. 身体 115 排泄とその設備 もともとたいていは水の豊かな環境に集落をつくり、しかも解放的な構造の住居に住む日本人は、排泄についてはおおらかだった。厠(川屋)ということばもそれを示している。しかしもちろん現実には、よほどの田舎でもないかぎり中近世の便所は、排泄物を一時的に溜めておく糞溜のしかけと、その場所をできるだけ日常生活の場から遠くする、という家の間取りの工夫とがなされていた。明治期の家政書には、家のなかの便所の位置として、「縁側の端より折り曲がり、床の間押入の裏手にあたり、人目に触れぬところに置くを適当とす、日を遮り風を防ぐよ… 1. 身体 116 小便の問題 明治新政府の発した最初の軽犯罪法規である、1872(明治5)年の東京府違式詿違(いしきかいい)条例の中に、「第49条 市中往来筋ニ於テ便所ニアラザル場所ヘ小便スル者」という項目がある。男性の往来での立小便の習慣は、銭湯での男女混浴などとならんで新政府にとってはあたまの痛い問題で、開港地の横浜ではこの条例以前にすでに禁止のお触れが出ている。たしかに市街地で、建物の壁や塀などに向かって放尿することは、欧米では泥酔者でもないかぎりまずありえない。当時の中国でも日本人のこの悪習は嫌われたらしく、1873(明治6… 1. 身体 117 裸体と露出 維新当初、新政府が頭を悩ました問題のひとつは、民衆の行儀の悪さだった。外国人に日本人が未開野蛮の民とみられることを、条約改正のことも念頭において新政府は怖れていた。実際、残された幕末明治初頭の写真を見ると、その時代の肉体労働者に褌(ふんどし)一本の男の多いのに気づく。裸写真には女も少なくないが、女のほうは演出写真が多いだろう。もっとも女も、肌を出すことをそれほど気にしていなかったらしい。「昔は女は細帯ひとつで、夏になると褌と襦袢で平気で歩いた。余程よい所の者でなくては帯はきちんとしめては居なかった」(『… 1. 身体 118 寝姿 夜、睡眠をとるときには、昼間とちがうかっこうをするのが、たいていの土地の習慣だ。夜は日中より温度が下がる。その寒さは布団を覆うことで防ぐことができる。昼間でも寒いときには布団を引っかぶっている怠け者もいる。昼間とちがうかっこうをする普通の目的は、からだを拘束せずに、もっとらくになりたいためだ。そのために夜は上に着ているもの――つまり社会生活にとっては必要な、窮屈なからをぬぐ。だからとくに夜着る衣服というものではなく、拘束のない、やわらかい下着すがたになって寝る、というのがひとつのパターンになる。また、床… 1. 身体 119 寝具 寝具は寝道具、また夜具ともいう。おもなものは掛ぶとん(布団、蒲団)、敷ぶとん、まくらの三種で、これはたいていの地域と時代を通してほぼおなじ。外国では床に直接ふとんを敷かないで、厚地のマットとか、木製金属製の寝台とか、オンドルや暖炉の上とか、あるいは逆に風通しのよいハンモック風のものの上とか、ヴァラエティがあるようだが、全体が温帯域のわが国ではそう変わったスタイルもない。ここではほぼ中緯度の地域――関東、関西を中心に考える。掛ぶとんについては、現代と明治時代とのあいだには大きなちがいがある。それはいわゆる…