テーマ | 総括 |
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No. | 907 |
タイトル | 流行とファッション |
解説 | 第二次大戦以前はまだ、「ファッション」は多くの日本人にはそれほど耳慣れたことばではなかったようだ。1920年代、30年代(ほぼ昭和戦前期)の現代語辞典、新語、新聞語辞典のたぐいにも、見出しにファッションの項のあるものは半分にもならない。ましてモードという見出しを持つものはごくわずかで、ア・ラ・モードという言い方で紹介しているものが2、3あるだけだ。それはこんな奇妙な説明をしている本があることでもわかるだろう。 ア・ラ・モード 英語のmode(流行)と、フランス語のa la(に於ける)とを組み合わせた日本製の言葉。最新流行の意味である。 もちろん戦前にもファッション雑誌と自称するものはあったし、1932(昭和7)年には最初のファッションショーも催された(→年表〈現況〉1932年5月 「はじめてのファッションショウ」時事新報 1932/5/8: 日曜版付録7)。しかしファッションということばは、洋服が女性たちの外出の装いとしても定着した戦後になって初めて、ニュールックやディオールの名とともに、日本人にとって身近で、親しみのあるものになった。もともと、元禄模様のファッションなどという言いかたには違和感があったのだ。 戦前から戦後にかけて、ファッションということばのうえでの誤解が生じたのは、日本人にファッションへのあこがれを最初に教えてくれたのが、パリのオートクチュールのデザイナーたちの名前だったためもある。その誤解とは、ファッションとモードとの次のような区別だ。パリの少数のデザイナーたちの、芸術作品ともいうべき創作物がモードであるのに対し、そのパテントが主としてニューヨーク七番街のアパレルメーカーに売り渡され、アレンジされて、大衆化したかたちと価格で普及したものがファッションである、という説明だ。 一見わかりやすいこういう説明によってよく読まれた本は、アメリカの社会教育家マーガレット・ストーリの‘Individuality and Clothes’(1930) だろう。女性の自己実現のためにも役立つ創作品としてのモードと、商品として大衆に受け入れられたファッションとを、彼女はフランス語のモード(mode)と、英米語のファッション(fashion)ということばを比喩的に使い分けて説明したが、この本から学んだ日本人洋裁家のなかに、モードとファッションとを、別の意味のことばでもあるように誤解した人がいたのは、やむを得なかったかもしれない。マッジ・ガーランドの有名なオートクチュールの紹介書‘La Mode’も、英米語に翻訳されたときは当然‘The Fashion’となっている。ファッションとモードのちがいとは、猫とネズミのちがいではなく、同じネズミでも、日本のネズミとアメリカのネズミとでは食性が異なる、というのとおなじだ。念のためにつけ加えれば、フランス語にファッションという語はなく、英語のモードは別の意味になる。 明治から昭和前期に衣類や装身具、髪型などのモデルチェンジを指していわれた「流行」ということばは、さしあたりは英語のファッション、フランス語のモードと同じ意味のものと理解すればよい。もちろんそこにはモードとファッションとの食性の差程度のニュアンスがのちがいはあるはずだ。日本語の「流行」はもともとあまりプラスイメージを持ってはいない。これは中国の古典にも出てくる古いことばだが、明治の知識人の頭には、松尾芭蕉の「万代不易と一時流行」という文章が下敷きのようにあったろう。そのためか流行に代えて時装ということばを使っている例もある。流行り廃りのあるものといえば、短い時間だけ眼を喜ばすにすぎないもの、ほんとうの価値を持たないもの、とされ、教育家のなかなどには感情的な流行嫌いがよくいたものだ。人が新しいスタイルに刺激され、新鮮さを感じるのは、見慣れたものへの感覚疲労によるといわれるが、逆に見慣れたスタイルから感じられる安らぎもあり、とりわけそういう欲求の強い人もあって、ときとしてそれには一種の思想的な裏打ちが存在する。 流行は変化が前提になるが、明治の前の時代は、基本的に何事にも変化を求めない、むしろ変化を嫌う傾向を持つ社会だった。それはとくに政治体制の維持者である武士階級の思想だったから、風俗においても武士は身分の高下、収入の多寡のあるがままに、一生涯、身につけるものも三度三度口にするものも、その時々の時宜に従うだけで、変化には無関心だった。 武家はもとより町人でも堅気の家庭は流行からは全く超越して、流行を追う如きは家庭の堕落と見做されていた。尤も漠然と今年は鼠がハヤるとか茶がスタレたとかいう咄は家庭の話題になったが、(……)自分達と関係のない向川岸の噂であった。流行を追うのが栄えでもなく流行に背くのが恥でもなかった。 魯庵のこの回顧にもあるように、その時代にも武家社会以外の世の中では流行はあったのだ。しかしじつは、ひとの装いに流行り廃りがあるという文化は、近代以前では世界史的にいって、そう例の多いことではない。 近世以降のヨーロッパの知識人は、ファッションこそ西欧文明の証として誇ってきた。古代のエジプトやローマの栄華を思いだすまでもなく、ルネサンス以後のイスラムのカリフたちのハレムや、遠いキタイ(中国)の宮廷には、この世のものとも思えない豪華はあるが、しかしファッションはない。だから暗黒時代ともいわれる中世のヨーロッパにもファッションはなかった。文明の証であるという「ファッション現象」の、ヨーロッパにおける起点をいつごろとするかは、欧米の服装史家のあいだでも諸説があって、14世紀後半から末、という意見がもっとも多いようだ。その場合、それではファッションとはどんなことを指すかといえば、身の装いを主とした、スタイルの恒常的な変化と、模倣、追随によるその広がり、という現象だ。 ファッションをこのように定義づければ、単に時系列的なスタイルの変化はファッションとはいえないことになる。1910(明治43)年に刊行されたある本のなかで、「洋服は簡便で実用的であるから、仕事をなし、また歩行するときなどは誠に具合がよい、それでずいぶん流行をしている」(石崎篁園 「第14章 洋服」『衣服の調整』1910)という言い方をしているのは正しくないだろう。和服から洋服への変容は、短いスパンの恒常的変化のひとつなどではあり得ない。 おなじような事例で第二次大戦後ファッションと区別されたのは、1950年代以後のジーンズの普及だ。だれもがジーンズを身につけるようになり、しかもそれが定着したかのように感じられたとき、もはやそれはファッションないし流行とはいえず、新しい風俗であるといわれた。 また機能上の利便性をもたらしてくれたイノベーションも、それが仮にスタイリングに関連するものであっても、流行ともファッションともいいにくい。1890年代(ほぼ明治20年代)の吾妻コートや1920年代(大正末~昭和初め)の洋髪、30年代後半(昭和10年代前半)のパーマネントも、その時代の人は単に流行と思っていただろうが、文明史的にみればスタイルのつぎのステップに上がったのだった。おなじころ、初夏に女性が好んで着るようになったセルや、女の子のよろこんだモスリン友禅もそうだろう。 それとくらべれば明治以後の小紋の盛衰や、縞柄の好み、またイギリス巻から夜会、二百三高地、廂髪(ひさしがみ)と推移した束髪の変遷などは、まさに浮き草のような流行りものだった。 (大丸 弘) |