近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 総括
No. 906
タイトル エロ取締の時代
解説

大正の初め、警視庁保安課長の、美術展覧会出品物取締に関する見解のなかに、つぎのようなことばがある。「芸術家やその道の専門家の意見などは参考にする必要はない。要するに立場のちがった我々が、純粋に我々の立場で取締規則を作ってゆくのであるから……」(→年表〈現況〉1917年6月 「裸体画に対する警視庁の見解」読売新聞 1917/6/6: 5)。保安課長のことばのなかには「国体」という表現もあるが、要するに日本の現状では、民衆が裸体美術に古くから接している欧州諸国と同列に考えるべきではない、というのだ。

たしかに、美術品であるとか、芸術的価値などということは、多くの見物人にとってはどうでもよいことだったかもしれない。博覧会に展示された蝋製の医学用人体模型の、女性の腰部にも、いたずらをするものが絶えないという(→年表〈現況〉1907年4月 「愚劣の行為にやむなき処置」朝日新聞 1907/4/26: 6)。

1888(明治21)年にフェノロサらの協力によって東京美術学校が開設されても、当初は狩野派系統の日本画教育中心で、裸体モデルを使っての人物画の実習がはじまったのは、かなりあとだった。在野の団体による裸体画の制作は1880年代末(ほぼ明治20年代初め)から少しずつおこなわれていたが、大衆がそういうものを見慣れるには、まだ長い道のりが必要だったろう。

民衆の不慣れ、という点をいうなら、アメリカの民衆にも似たことがいえた。イギリスやフランスでは問題がなかったか、問題視されてもなんとかパスした裸体作品が、アメリカの税関で拒絶される事件はよく聞く。しかしその背景のなかに、アメリカの場合、ピューリタニズムの伝統による頑なさがあるのに対し、わが国では前代の非常識な興行物やポルノグラフィの記憶が、だれの頭のなかにもあったに相違ない。日本人が知っている女の裸の造形作品といえば、絵双紙に描かれている濡れ場や、手ごめの場面、そしてあの大量の笑い絵以外になかった。

1907(明治40)年創設の上野の山の文展(文部省美術展覧会)は、たいていは博覧会なみの人気があった(→年表〈事件〉1916年10月 藤懸静也「婦人と美術趣味」【婦人画報】1917/1月)。見物人のすべてが裸体美人画、裸体彫刻目当てでもなかったろうが、その人気を狙って絵葉書業者が、特に裸体画の絵葉書を刷りだし、これが全国的に飛ぶように売れた。内務省は文部省と協議して、この種の絵葉書の発売頒布を禁止している。理由は、博覧会場で裸体画を見るときの観衆の気持ちは真面目であるが、世間一般にさらして、各階級の人に勝手に見られれば風紀を乱すこと甚だしい、というのだった(→年表〈事件〉1916年10月 「裸体美人画絵葉書の禁止」都新聞 1916/10/12: 3)。

1910年代後半、大正期を通じては、文展など美術展覧会の人気は以前ほどではなくなり、それと歩調を合わせるように裸体画の話題も消滅する。ひとつには世間に、活動写真をはじめ、はるかに刺激の強い興行物が現れ、大衆の関心も、したがって官憲の眼もそちらのほうに奪われたためだ。

官憲の標的のひとつは、浅草などの盛り場で人気を集めている軽演劇やオペラのたぐいだった。1910年代から1930年代初め(昭和初め)にかけての、特に浅草オペラ、軽演劇からは、肉体の魅力と猥褻との、スレスレともいえるし、また交錯ともいえる新しい刺激が誕生していた。そのひとつはたとえば脇の下であり、脇毛だ。この時代まで舞台の女優は、袖なしで腕を差しあげなければならない演技のとき、脇毛の見えるのを恥じて布製のパッチを貼るのが普通だった。1910年代半ばにはアメリカで脱毛クリームが発売されたが、浅草の女優やダンサーたちは剃刀を使っていたようだ。毛の色の薄い西洋人とちがい、日本女性にとっては厄介なものだった。婦人雑誌に脇毛の始末の方法などが現れるのは1930年代に入ってから(昭和初め)で、そこではもう脱毛クリームが勧められている(→年表〈現況〉1932年6月 メイ・牛山「腕と手のお化粧」【婦人世界】1932/6月)。しかし浅草の女優たちを脇の下を、セックスポイントのひとつとして売っていたらしい(→参考ノート No.204〈肌の手入れ/美顔術〉)。

舞台の上での挑発に対しては、1930(昭和5)年11月に、警視庁は〈エロ取締規則〉を出している。各警察署に通達された内容を要約すると、

一、股下二寸未満、あるいは肉色のズロースを使用すべからず。
二、背部は上体の二分の一以下は露出すべからず。
三、胸部は乳房以下を露出すべからず。
四、片方の脚といえども、股下近くまで肉体を露出すべからず。
五、照明にて腰部の着衣を肉色に反射すべからず。
六、腰部を前後左右に振る所作は厳禁す。
七、客席に向かい脚を上げ、股が継続的に観客に見ゆる所作をなすべからず。
八、「静物」と称し、全身に肉襦袢を着し、肉体の曲線を連想させる演出をなすべからず。
と、はなはだ具体的だ(→年表〈事件〉1930年11月 「手も足も出ぬ猛烈なエロ征伐」朝日新聞 1930/11/25: 2)。

ただし、第一次大戦後の日本社会は、女性の思いきった贅沢さやそのひとつとしての大胆な粧いが、警視庁の眼を、もはや舞台の上やダンサー、女給など、プロフェッショナルの女性にばかり向けさせない状況になっていた(→年表〈現況〉1917年7月 「緋縮緬の湯捲き 此頃流行する絽や紗」都新聞 1917/7/20: 5)。

1920(大正9)年に警視庁は、紗、寒冷紗、ガーゼなど薄物衣料で眼に余るものは、風俗上放置できないとして、その取締を各警察署に令達した。ただし、どの程度が取締対象になるかは、現場の巡査の常識に任せられている。

しかし盛夏のころになれば女性は薄物を着るという常識には、歯止めはかからず、取締がくりかえされた。「震災後から外国かぶれの蓮っ葉娘やカフェの女給等で肌も露わな薄物を纏って異性を誘惑する者が急激に増加したので、警視庁では昨年薄物取締令をだして、いやしくも肉体が素通しに外部に見えるような衣類は絶対に許可しないことにはなったが(……)此際取締を徹底させようというのである」(→年表〈事件〉1927年5月 「内務省警保局より各県警察署に通牒」読売新聞 1927/5/10: 7)。

上に重ねた薄物から派手な長襦袢や素肌を透かせるのは、わが国の習俗からも別に新しいことではない。「外国かぶれ」の風俗のうちで、老人の心胆を冷やしたのは接吻だったろう。

接吻は愛情表現としては自然のことなので、もちろんわが国でも親子や男女のあいだでは自然におこなわれていた。それを「口吸い」と呼んでいたことも知られている。むしろ儀礼的な接吻や、人前での親愛表現としてのキッスは異国から入ってきた習慣だ。明治の初めには「淫舌」、などというすごい言い方もあったようだ。「日本の女と淫舌していたのがフランス水兵だった」(→年表〈現況〉1872年6月 「淫舌」横浜毎日新聞 1872/6/21: 2)というのはおもしろい。

一歩街頭に出れば、夜の公園や静かな郊外等に、さてはエロ化したカフェやバーに、我々はどの位、相擁し唇をかわしている幸福そうな若人達の姿を見る事であろう。誠、一九三一年。接吻は若人達に、一ツの常識と化した。
(小倉浩一郎『世界映画風俗史』1931)

小倉は、最近の外国映画では、観衆の淫情を興奮させ、刺激するものの他は、無暗に(検閲の)鋏を加えられなくなった、と書いている。

それから10年ほどのちの1939(昭和14)年、日中戦争がすでに3年目を迎えていた年、内務省映画検閲課は、最近の日本映画のなかに接吻シーンが16件あったこと、「日本物の接吻は大概男女が寄り添って口と口を軽くあてる程度のものだが、わが国風俗上及び衛生上全然面白くない」と言っている(→年表〈現況〉1939年3月 「驚く勿れ日本物にも接吻十六件」報知新聞 1939/3/17: 3)。映画のなかでのキッスが戦後のもの、という通説には疑問がある。

(大丸 弘)