近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 総括
No. 905
タイトル 好色/猥褻
解説

日本人は性については寛容な文化をもってきた。アナーキーとさえいえるかもしれない。古事記、源氏物語、井原西鶴――日本文学のめぼしいものに、男と女の色情の哀れさと、笑い以外になにがあるだろうか。近代に隣りあった江戸時代後期の文学も、坪内逍遙によれば、「ポルノグラフィに傾くか、バッフンネリー(道化)に流れるか、少なくともこのふたつのものに幾分かずつ感染しないわけにはいかない宿命を持っていた」という(「新旧過渡期の回想」【早稲田文学】1925/3月)。逍遙もいうように、とりわけ下町で人気の音曲類――長唄、清元、一中、新内など、少女の頑是(がんぜ)ない喉で唄われる詞章の多くは、情を知るような年頃になれば、顔を赤らめなければ聞けないような内容だった。

明治政府の元老、高官たちが、揃いも揃って狭斜出身の細君を持ち、また権妻(妾)を抱えていることを隠そうともしていない。だからこそ[萬朝報]の黒岩涙香(るいこう)が紙面でそれをあからさまにした「弊風一斑蓄妾の実例」(1898)を連載したときも、まむしの周六と嫌われはしたが、その時分頻繁だった発行禁止の処分も受けなかった。近年の復刻版には「これを見ると、小間使いが手ごめにされて妾となるパターンが非常に多い。しかも十代の。今なら淫行・セクハラで即失脚だ。僧侶の蓄妾(ちくしょう)も数多い。政治家の女性スキャンダルは今では致命的だが、当時は妾を囲うのは当たり前だった」という解説があった。

キリスト教団などを中心に蓄妾を規制しようという動きはあった。法案提出の一歩手前まで行ったこともあるが、障害になったのは王朝以来の天皇家の伝統だった。今日まで無事皇統が持続したのは、あまたの女御更衣が天皇の周辺に侍っていたおかげではないか、という理屈だ。

そんなたいそうな理屈を持ちださないでも、女にとって「旦那を持つ」ことは、この時代そんなに恥ずかしいことではなかった。若い女が勤めにも出ず、身ぎれいにして親と暮らしていれば、旦那持ちとみなされた。それも親孝行のうちだった。遊びの経験のない男などめずらしかったから、嫁をとるのに処女性などを気にするような、野暮な人間は少なかったのだ。東京では吉原でもどこでも、娼婦が何人もの客の部屋をまわって歩く「廻し」の制度が、江戸時代と変わらず続いていた。性についての潔癖感はないに等しかった。

それよりなにより、その明治の女性の大胆さと、むしろ野放図さには驚くよりほかはない。サクラの下で絵日傘をかざす愛らしいニホンムスメ、のイメージに嘘はない。愛らしく、素直なニホンムスメは、外国人の頼みを素直によく聞いたようだ。幕末から明治初年にかけて大量に撮影された日本の風俗写真のなかには、非常に多くの演出写真が存在して、後世の人に誤解を与えているし、歴史研究者を悩ましている。そしてそのなかにはまた大量の、ポルノ写真といってもよいものが含まれている。

横浜の銘酒屋では、女性が外人の前で裸踊りを踊ったり、裸体写真を撮らせているという風聞があったが、三日前の夕方、花咲町四丁目の銘酒屋で、(……)その現場を抑えられ、三人が勾引された。
(→年表〈現況〉1891年12月 「裸踊りの現場、押さえられる」朝日新聞 1891/12/22: 3)

同じ年の神戸の福原遊廓では、娼妓が外国人客の前で裸踊りを踊って説諭されているが、横浜の場合は素人女性であるらしい。もちろんこれは氷山の一角だろう。

明治女性の大胆さでわれわれをもっと驚かせるのは、海外出稼ぎの日本人娼婦の大群だ。戦後、山崎朋子の『サンダカン八番娼館』がベストセラーになって以後、その実態がかなりくわしく紹介されたが、斡旋人の手によって、貧しい農村の子女が遠国に送られたといっても、誘拐されて、積み荷のように船に乗せられた女性ばかりとはかぎるまい。たとえ捨て鉢であったにしても、知らない土地で荒稼ぎ、という意欲もなかったとはいえないだろう。そんな「意欲」は、時代が大正、昭和と変わっても、それほど衰えてはいないようだ。

その一方で、男と女の間を隔てようとする東洋的な神経過敏さは、いまの人にはとても理解できそうもない。たとえば海軍病院では1879(明治12)年の規則改正まで、入院患者への女性の面会は、たとえ肉親、家族であっても、一切禁止していた(→年表〈現況〉1879年2月 「患者への女性の面会禁止」東京日日新聞 1879/2/28: 183)。また小学校であっても、男女生徒がひとつ教室での授業はもちろん、昇降口もべつにしようという動きがあった(→年表〈現況〉1885年9月 「小学生男女の昇降口をも別にせしめらるべし」東京日日新聞 1885/9/8: 6)。

小学校だけではない。医学校で、ひとつの教室で男女が授業を受けるのは風紀上よろしくない、ということで、次の学期から禁止すると報道されている(→年表〈現況〉1905年8月 「男女混淆授業の禁止」読売新聞 1905/8/12: 5)。 博覧会の看守に男と女が採用になると、新聞は待っていたように「怪しげな噂が」とはやしたてた(→年表〈現況〉1907年3月 「東京博覧会における男女看守の風紀問題」萬朝報 1907/3/29: 3)。

1917(大正6)年に公布された〈活動写真興行取締規則〉では、甲種フィルムを上映する興行場は、男女の席を区別しなければならない、とした。甲種フィルムには劇映画の大部分が含まれる(→年表〈事件〉1917年7月 「活動写真興行取締規則公布」【警視庁令】第12号 1917/7/14)。

落語の枕ではないが、若い男女が暗いところで立ち話でもしていようものなら、兄妹で引っ越しの相談をしていても水をぶっかけられたかもしれない。暗いところでなくても、若い男女が連れ立って歩くにはよほどの勇気が必要だった。

警視庁の風俗監視の厳しい視線も、このような神経質さの延長線上にあるだろう(→年表〈現況〉1917年6月 「裸体画に対する警視庁の見解」読売新聞 1917/6/6: 5)。なかでも世論を湧かしたのが、美術展覧会における裸体画、裸体彫刻の問題だったことはよく知られている。

1889(明治22)年1月発行の【国民の友】37号に渡辺省亭が描いた《蝴蝶》の裸体の官女は、ひとつの話題で終わったが、1895(明治28)年4月、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品された黒田清輝の《朝妝》はそれではすまなかった。裸体画の展示を禁止し、下半身を白い布を覆った、いわゆる「腰巻事件」(→年表〈現況〉1907年4月 「愚劣の行為にやむなき処置」朝日新聞 1907/4/26: 6)、別室に展示し、身分の確かなものにだけ入室を許可したり、といった処置が、1900年代(ほぼ明治30年代)、1910年代(ほぼ大正前半期)には頻繁にあって(→年表〈事件〉1917年10月 「朝倉文夫作の裸体像、撤収を命ぜられる」東京日日新聞 1917/10/23: 6 ほか)、識者の憤慨を買っていた。しかし会場管理者側から見ると、その種の作品への下品ないたずらには、手を焼いていたのだ。

(大丸 弘)